橋渡し 三下り
市川三升詞・吉田草紙庵曲
夕立の晴れて 染め出す 水色の 空には虹の
橋渡し 見合い見交わす
舟の中 のぞく 筑波も笑い顔
(新晚夏七月.昭和四年一月開曲)
[解釈と鑑賞]
この小唄は茅場町の喜可久で開封された。この歌詞は隅田川の夏の船遊びで、
夕立の去ったあとの虹の橋を唄った爽やかな作詞である。
のぞく筑波も笑い顔⋯⋯は、河東節『七重八重花の栞』(文化九年三月作)の中の「うつりにけりな悪戯 を 筑波がのぞく船の中⋯⋯を三升が採ったもので、おそらく橋渡しが隅田川なので、近くの吉原を唄った 「花の栞」を引用したものであろう。隅田川を唄ったこの作詞は素晴らしく、草紙庵の作曲も本調子の替手をつけた、派手な手付で、この曲を唄ったった初代本木寿以(明治21年~昭和54年)の節止まりから送りになる艶麗な節回しが、今でも耳に残っている。草紙庵者の中で、今日まで盛んに唄われる小唄の一つである。
2,通り魔 三下り
伊東深水詞・吉田草紙庵曲
春風は
ほんとに憎い通り魔よ、誰も
知らない 淋しさを 人の心の 透間から
そっと投げこむ 通り摩よ
(新暦晩春四月・昭和六年作)
[出典]都の華 [解釈と鑑賞]
この小唄は「辰巳ゃよいとこ』の大流行で気をよくした伊東深水が、「酒中花』に
作詞四章を掲載したが、
〜春風はほんとに憎い通り魔よ
〜打水の庭に素足の浴衣けかや
〜二人が仲は麻の蚊帳
〜更けて待つ月に 散りかかる
これはこの中の一を草紙庵が作曲したものである。(『酒中花』3巻1号) 深水は。昭和五年(三十二歳)、大森区池上本町に画室を新築して「朗峯画塾(ろうごうがじゅく)』と名づけ、その年十月の帝展 に「浄晨』を出品した。これは塩原温泉(塩/湯)の朦朧とかすむ空間の野天風呂に五人の裸女を描いた じょうしん もので、深水が従来の『美人画』から抜け出して、昭和の健康な女性を描こうとした、新しい傾向の作品で た。この頃、
春日派を立てたばかりの春日とよが、小唄を教えにみえていた。この小唄はそうした 作詞されたものであった。
「通り魔』とは、通りがかりに人を傷つける魔物のことで、小唄の主人公はうら若き女性で、その初々しい
乙女心を傷つける憎い通り魔を 恋風と唄った所は、昭和の新作小唄にふさわしくその
瑞々しい感覚は、若人の共感を呼ぶ名作詞であった。この小唄を、深水と関係の深い二世小唄幸子の唄、幸とよの糸で聞 いたが、草紙庵の作曲は、チントンシャーンで始まり、しっとりと情感のこもる手付で、送りがまた素晴ら しく、芸術味あふるる一篇の叙情詩であった。草紙庵は常磐津三蔵の『辰巳』に負けぬ立派な曲を作ろうと張りきったが、この曲は当時あまり流行しなかった。それは作詞・作曲とも華やかな個所が少なく、呂(りょ)の音 の唄いまわしが、小唄人にとって難かしすぎた、と考えられる。もっともっと、唄って欲しい秀曲の一つである。
※1 日本音楽で、声または楽器の低い音域のこと。甲 (かん) に対していう。乙 (おつ) 。
3、やくの野暮
嫉くのは野暮(君が罪) 二上り
渡辺光丸・青空声合詞・ 清元菊之輔曲
嫉くのは野暮と
知りながら
あの忘られぬ 甘口に
よそでもそれと 胸に針
嬉しがらせた 罪じゃぞえ。
(季なし・大正三年作)
[出典]都の華 と鑑賞
]この小唄の作詞者、渡辺光丸は。あかし貯蓄銀行の創立者で、頭取の渡辺勝三郎の俳号で、その夫人は、もともと日本橋の芸者八重菊で
青木蚊声女(あおきかせいじょ)名で、のち、小唄の、節付けををした
この小唄「妬くのは野暮」は、
男に対する女の嫉妬の感情を唄った軽妙な作詞で、英十三によると「草紙庵の作曲は、
冒頭の「嫉くのは野暮と知りながら⋯⋯」は師匠の〜切れてみやがれただ置くものか⋯⋯の男を呪
い殺すという小唄の調を借りてきているのが面白い。そして終りのへ嬉しがらせた罪じゃぞえ⋯⋯に淋しい中にも色気のある、はるさめ。二上り新内の調をもってきたのは傑作で、
後弾に端唄『春雨』の手を使ったのは『わたしゃ鶯、主は梅』と いう文句の通り、
貴方は私のものという女の気持をこめたものと推測する」とある。一『小唄よもやま話」昭和32・東京新聞)
この小唄は通称『やく野幕』と呼ばれて大いに流行した。筆者はこの小唄を初代喜む良勇吉の弟子で草紙曲の糸と唄い方を正確に教わった
鶴岡初茂師(明治三十六年~昭和五十六年)の弾き唄いで聞いたが、眼目の、よそでもそれと胸に針⋯⋯を、
浮気の男に対する嫉妬の感情をくどきの形で表現しているのは卓見であると感じた。
それから三年たった大正六年(第一次世界大戦中)、当時の工業家を以て組織された『日本工業倶楽部』の メンバーが中心となって、
『東京小唄会』いう小唄グループが発足した。神田銀行の頭取神田鐳蔵(らいぞう)、秩父セメントの社長で歌沢で鳴らした諸井恒平(俳号其通)に、
前述の渡辺光丸、青木空声の四人が幹事役で、ミッワ石鹼の丸見屋の社長、三輪善兵衛、
製紙の社長で歌沢の素人名人と云われた大川平三郎
実業家星野 錫(ほしの しゃく)
実業家田中平八
実業家栗原幸八、
政界からは清元の素人名人と云われた政友会党人、望月圭介らがそのメンバーであった。
東京小唄会は毎月一回例会をもって料亭に集まり、それぞれ習い立ての小唄を唄ううちに、
何時か小唄の新曲を作詞するようになり
光丸・空声のお声がかりで、これら通人の作詞に作曲するのが菊之輔の役目になっていったのである。
菊之輔は大正三・四年頃から、深川で名代の鰻料理屋『宮川』の一室を借りて、深川の芸者たちに清元を 教えていたことから、主人の宮川曼魚の知遇を得られるようになって、請われるままに曼魚作詞の小唄「巳波金」みなみかねを作曲したのは大正6年であった
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