小唄徒然草52の配信です。
とよ家元作曲で師範試験の課題曲3曲も
小唄の解説、説明付きナレーションも
つけておきます。
1、打ち水 (師範試験課題曲)
2、春日野
3、逢いたい病(師範試験課題曲)
4、梅一輪 (師範試験課題曲)
『打ち水』に、あのような背景があったなんて、わたしも、知りませんでした。
どうぞ!お聴きください。
打ち水 本調子 佐藤隆三詞 初代春日とよ曲
[解釈と鑑賞]この小唄は春日小唄の代表曲の一つとされる純情小唄である。
昭和七年五月、『坂田山心中』が新聞を賑わしたが、つづいて七月には
藤原義江の歌の伴奏として知られ たピアニスト近藤柏次郎(三十六歳)と
新橋芸者大和家の千代梅(二十歳)の心中が報道された。
千代梅(本名森本まさ子)にとって柏次郎は初恋の人で
お定まりの通り女に落籍の話が出た。
男には金がなく、晴れてこの世で添われぬ運命と、
七月十二日、代々幡町の柏次郎の自宅のダブルベッ ドで、
ガス心中を遂げたのであった。
枕元のレターペーパーに鉛筆の走り書で
『二人を一緒にどこ の隅にでも埋めて下さい。』とあった
ピアニスト近藤柏次郎と新橋芸者千代梅の心中
この事件の数日後、佐藤隆三(三十三歳)が、日頃贔屓にしている銀座裏の小料理屋を訪れると、
そこの、女将が、千代梅の母で、この話を涙ながらに聞かされた隆三は、
昭和の世にこんな美しい純情な恋があるのか、と強く胸をうたれ、千代梅の『恋に焦れて泣く』心の中を、打ち水の、したたる草の中に、すだく虫の音に托して唄い上げたのが、
この小唄で、隆三の最初の小唄作詞であった。
隆三は、当時趣味の一つとして小唄を、田村伊都(のち井筒小伊都)に習っていたので、
師匠の伊都に作曲を 依頼したが、いつか、めぐり廻って、春日とよの手に渡ったと言われる。
とよは、千代梅の心中がこんな小唄の素材になっている事を知らなかった。
しかしこの歌詞から、吾が身と。初代村幸との悲しい恋の日を思い浮べて作曲した。
淋しいわが身に誰がしたという所は、私の、いろいろの思い出が含まれてこしらえた。』と、
とよはこの曲を、弟子のとよ松に移すときに語ったと
いう。
打ち水とは、埃をしづめ涼気をとるために、庭にまく水のことで、
小唄はチントンシャーン打ち水と出て、
声を哀れと聞くほどの⋯の切れ目から、淋しいわが身の唄い継ぎに、薗八節を面白くはめこんであって、
ここがこの唄の聞かせ所となっている。
光る露は、開曲の時は下げて唄われたというが、
現在では、上げて唄われている。
開曲は田端の自笑軒であったが、この小唄は、女らしい繊細な節付と、艶麗な調べによって、
これまでの蘆江小唄と一味違った、春日小唄の一つの傾向を示す、名曲であると同時に、
草紙庵と対照的な女唄の誕生を意味する、決定的な作品であったと、筆者は考えている。
【佐藤隆三(明治十八-昭和三十六) 大正・昭和期の粋人の一人。
鹿児島の名門有島武の三男として横浜に生れた。兄は武郎、生馬(いくま)
弟は里見弴(さとみとん)という文学一家である。
学習院、慶応幼稚舎から、鹿児島中学に転じ、再び慶応に戻って卒業。
母方の実家の、佐藤姓を嗣ぎ、アメリカに滞在し、帰国後
は、勤めもせず生涯気儘な生活を送った。
趣味は園芸、麻雀、撞球、小唄で、『打ち水』の作詞が昭和七年で、翌八年には、
『筒井筒(つついづつ)』を作詞した。晩年は、週一回、井筒派から師匠が出稽古に来て、
知人友人と共に、一日小唄を楽しんだ。すべてが几帳面で、自分を律することがきびしく、
小唄作詞の意欲は、病臥中も劣えなかった。昭和三十六年、九月歿。行年七十六歳
この小唄は、現在、春日派師範試験の課題曲に一つになっている。
打ち水 本調子 唄・春日とよ栄芝 佐藤隆三詞 初代春日とよ曲
打ち水の 滴たる草に 光る露
恋に焦れて 啼く虫の
声を哀れと 聞くほどの
淋しいわが身に 誰がした。
(新暦晚夏七月・昭和七年作)
春日とよの。『春日野』と『逢いたい病』
[解釈と鑑賞』
この二曲は、昭和五年五月の春日派披露小唄会に開封された記念すべき小唄である。この時、
和田英作が配りものの扇子に『藤』の絵を執筆し、蘆江が挨拶状と御祝儀唄『春日野』を書き、
十一世片岡仁左衛門と、中村魁車が出演して色を添えた。
春日野⋯は、春日派の式唄として、平山蘆江が新作したもので、
春日と言う事から「春日野の 若紫の すり衣 しのぶ みだれ 限り知らず」という
在原業平の古歌(『伊勢物語』)の『初冠(ういこうぶり)』の唄)を中心に据えた、
雄大な趣きのある作詞で、とよの作曲は、御祝儀曲として、何挺何枚かで演奏できるよう、
華やかな中に、粋と気品のよさをこめたものであった。
次の、逢いたい病に付いて、蘆江は、その来歴をこう書いている。
ある事から女房が、茶の間で私に「人に意見をするほどの年頃になっていながら⋯』と口小言を言って、
それが玄関に聞こえる程の高調子になっていたとき、偶然私の家を訪れたとよが、その声を聞きつけて茶の間に入ってきた。
流石に女房も、まごついて、途中で『人に意見を言ってみる程の年頃⋯⋯』といって、
そのまま、儘尻切とんぼになった。これを聞いたとよが『先生、人に意見を言ってみるほどという言い廻しは面白いわね』という。
私も同様に気が付いて、 直ぐこの言葉を土台にした小唄を、まとめにかかった。
とよと、女房が時候の挨拶をしたり、お茶お菓子が出たりする間に、「逢いたい病」の歌詞が出来た。
『かれこれ三分間で纏まりましたから、節付けも3分くらいでまとめてみませんか』と私は言い添えてとよに渡した。
とよは、ほんの少し無口になったかと思うと、三味線を貸 し下さいと言ったのが、ざっと三十分そこという時間で、
そしてこの曲ができ上った。 昭和五年のことであった。
筆者はこの二曲を聞いて、これまでの蘆江の旧作に比して、はっきりと一線を画す小唄の出現を感じた。
「春日野⋯の雄大な趣は言うまでもなく、逢いたい病⋯は、歌詞が新鮮で、女性の繊細な心理を肌理細かく描写して、
昭和の新時代にふさわしい歌詞であった。之に対するとよの作曲は、春日野⋯に付いて は雄大な趣と枠と気品をたっぷりと表現し、
逢いたい病⋯⋯は、チントンシャーン、逢いたい病⋯と出て、 少し此頃募り過して⋯では、恋に悶える女の気持を出し、
眼目の「人に意見を⋯をカンにして、「気楽 な身分⋯を。糸にのらずに言葉で唄って「なれぬものかいな⋯と終る、
その絶妙な間と、緩急自在な唄い方とは、正にフッ切れた、春日小唄の誕生であった。
今回の作品発表は、人々に遅れて、昭和の始めに一派を樹てた。春日派の興廃をかけた一戦であり、同時にと
よが作曲の技量を世に問う、試金石でもあったが、第一の関門を突破したのであった。
春日野 本調子 唄 春日とよ 平山蘆江 作詞 春日とよ 作曲
春日野の
若紫のすそごろも
しのぶのみだれ
かぎり知られぬ
わたしのおもいを
糸にたよりて
謡う一とふし
あいたい病 本調子 唄 春日とよ 平山蘆江 作詞 春日とよ 作曲
あいたい病が
少し此の頃つのり過ごして
どうにもならぬ
人に意見を云ってみる程
気楽な気分になれぬものかいな
(季なし・昭和五年五月開曲)
梅一輪 春日とよ 唄 平山蘆江作詞 春日とよ作曲 昭和六年作)
服部嵐雪の「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」と、芭蕉の「春もやや景色整う月と梅」を初めと中に置いて、逢いたい気分にもなりましたよ、という心持ちを唄った唄です。
梅一輪
一輪づつに 鶯の
うたい初め候
春の景色も
ととのうままに
実は逢いたくなったのさ
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