春日とよの舞踊劇小唄・稲妻
小唄 稲妻 本調子 渥美清太郎詞 初代春日とよ曲
この小唄は、若柳流の、二世家元、若柳吉蔵の舞踊会に出した連作小唄振り『稲妻』で、
六つの小唄を集めて、芝居がかりの踊りとした斬新な試みであった。
戦後の、昭和二十七年五月若柳寿慶(二世吉蔵の高弟の吉佑・正派若流二代目総務)一門によって、歌舞伎座で再演されて大喝采を博した。
この時、とよが、作曲を忘れ ていたのを、寿慶夫人の春日とよ靖(昭和55・9・前橋の自宅にて歿。82歳。
春日会の評議員として、横浜で 活躍している春日とよ靖比佐師の師匠である。が覚えていて大変に役立ったとの事である。
この舞踊劇の梗概は『八百蔵吉五郎』の講釈から思いついたもので、若旦那に化けた、掏摸(スリ)と芸者に化けた女の掏摸との出合いで、
芸者が若旦那の紙入れを掏っていい気持でいると、その前に、若旦那の方が芸者の紙入れをすっていたことがわかり、
お互い共鳴して、一緒に仕事をしようというのが落ちであった。
解釈と鑑賞
小唄「稲妻』は渥美滴太郎の最初の小唄作詞であるが、江戸前の粋な作詞で、「稲妻』とは雷鳴の際の稲光り(雷光)である。
1曲めの、稲妻や⋯は}、舞台は大川端の料亭で、折からの夕立の、雷さんの引合せで、若旦那と芸者とが味な仲となる。
、若柳の⋯⋯をカンとしたのは、若柳流をきかせたものである。
2曲めの。主に操をと、3曲目の、今のいまは、芸者の口説きで、ゆっくりと情をこめて唄う。
4曲目の、堅いとよそに⋯⋯は、若旦那の振りで、早間 となる、結城とは、茨城県結城市から産する結城紬で、
木藍で染めた細い紬糸で織った、地質堅牢な絹織物。
『唐棧』は、紺地に 赤などの色合いを、細い堅縞に配し、通人が羽織・着物に愛用する粋なもの。
『双子』は、二子縞の絹織物のことで、
『音羽屋格子』は、尾上菊五郎好みの格子縞である。
風吹けば⋯⋯は二人だての連舞で、後引は、佃となる。
以上の5つの小唄は、二人それぞれにの小唄ぶり用いられ、
最後6番目の小唄、晴れて雪間にあれ月の影(本調子の古典小唄)がその幕切れであった。
全曲、いかにも江戸前で。粋なとよの作曲であったが、踊りの初演の時は時局柄不健康であると、剣突を食わされ、
一緒に演じた、歌沢の「梅暦』もついでに叱られたとのことである。
そして之が、春日とよの戦前の最後の歌舞伎小唄となった。
(渥美清太郎(明治二十五年-昭和三十四年) 評論家。東京下谷に生れ、青山学院高等部に在学しながら上野図書館に勤務し、歌舞伎脚本、演劇資料を、読破したのち演芸画報社に入って「演芸画報」の編集に参加し、同社、解散後に「演劇界」の 集長となった。氏は、博覧強記、文字通りの生き字引で、『日本戯曲全集』(昭和8年)の編纂をおこなったほか演劇・邦楽・邦舞の著書が多い。
小唄も好きで『春日とよの、(春日派名取式の引き出物で配布される)名著があり、
また数篇の小唄を作詞した、酒を愛し、 死ぬまで飲み通した。
日本舞踊協会賞、芸術選賞を受け、三十四年八月歿。行年六十七歳
小唄 稲妻 本調子
唄・40歳代前半の春日とよ家元の声 渥美清太郎詞 初代春日とよ曲
① 稲妻や 今年は丁度、梅の上、その青葉さえ若柳の 青い光にぞっとして 縋る手元も白雨に 通 り過ぎたる雷さんの後はほんのり 夕日影。
本調子
②主に操を立つ月日 嬉しい瀬に住む都鳥 いざ言問わんこちらほど 先にも実があるやらん実があるかと疑うて。
二上り
③今のいま云った一言は 憎らしい仇言な 夢に結びし番いの蝶々 末の末まで 二人連れぢゃわいな。
三下り
④堅いとよそに結城柄、吾から糸のほころびを、下は唐棧素給の 合せ兼ねたる双子さえ 縞も荒気な 音羽屋格子。
本調子
⑤風吹けば 沖津波立田山 その白波の沖越えて 疾風も風も空を吹く 板子一枚その下は 地獄と覚悟の海の上。
(陰暦初秋七月・昭和十八年夏開曲)
小唄 笠森おせん 三下り 唄・春日とよ栄芝 小林栄詞 春日とよ曲
[名題と梗概]
実録によると、明和の頃、江戸谷中(台東区)の上野と地続きの感応寺の、中門前の『笠森稲荷社』に
『かぎ屋』(鍵屋)という水茶屋を開いていたおせんは、世にも稀な器量よしであった。
この稲荷は昔は、瘡守稲荷ととばれた、瘡(皮膚病の総称)の神で、
まず祈願をこめる時は、土の団子を供え、願いが叶えば、米の団子を改めて供える風習があり、
両側の茶屋は、みな両様の団子を売っていた。
ところがお参りに事よせて、おせんに願がけする人が多く『お仙、美なりとて、皆、人見に行』と書かれ、
遂に錦絵の元祖、鈴木春信の描く錦絵の一枚絵となり、
江戸随一の美女と称され、明和五年には、歌舞伎に演じられて、絵草紙・双六から手拭にまで染められた。
その名物おせんは、突然姿を消して、こっそりお庭番の武士、倉地政之助に嫁入りしたというが、
その墓は現在、中野区高田の正見寺の本堂の裏手にある。
笠森おせんの芝居は『怪談 月笠森』に作られている。河竹黙阿弥作で、慶応三年八月守田座で初演されたが、
おせんと姉娘のおきつの二役を書いて、怪談劇にまとめたもので、平凡な作劇の上、
小林栄の小唄との関係が薄いので省略することとする。
[解釈と鑑賞]
この小唄は、小林栄が 鈴木春信の錦絵『笠森おせん』をやっと見つけ出し、
その実録を調べた結果、幸福な生涯を送ったおせんの十八歳の全盛期の姿を、
錦絵から抜け出したつもりで作詞したもので、芝居小唄として、作詞したものではな かったと言う。
小唄は、春の夕のおせん茶屋で、掛行燈に灯をいれる、白き頸の、哀艶極まるおせんの立姿を唄った、栄の優婉な 歌詞である。
鐘一つ売れぬ日は無し江戸の春、其角は、寺の鐘のように滅多に売れないものでさえ、
花のお江戸は、諸国の人が入って、毎日、売れぬ日はないほどの 江戸の春を詠じたもので、
栄がこの句を冒頭にすえたのは、繁華な江戸の花の春から、上野寛永寺とを連想させたものである。
土の団子の願事⋯⋯は、参詣の人々がみな、おせんに思いをかけて、土の団子を供えた事を指し、
『入相桜』は入相時(夕暮)と桜とをかけたものである。
春日とよの作曲は、本調子の替手をいれて花見の賑やかな前弾から、鐘一つ⋯⋯と中音で出て、江戸の春と おせん茶屋とを唄い、
妾や見られて恥づかしい⋯⋯が眼目で、ここからおせんの立姿にうつり、、春信描 く一枚絵で終る。
しっとりとした情緒をたっぷりな小唄である。この小唄は、昭和十七年十一月の『志乃ぶ 会』で吾妻徳穂が、小唄振りの振りを付けて踊った。
さぞよかったことであろう。 尚、春日の小唄会では、この後に続けて おぼろよ
朧夜や木の間にゆらぐぼんぼりの⋯を唄うことにしているが、このため、花の春の宵が、更に美しく感じられるのである。
小唄 笠森おせん 三下り 唄・春日とよ栄芝 小林栄詞 春日とよ曲 糸・春日豊喜扇 替手・春日豊芝洲
鐘一つ 売れぬ日も無し 江戸の春 花の噂の高さより
土の団子の願事を かけた渋茶のおせん茶屋
妾ゃ見られて恥づかしい 掛行燈に 灯を入れる
入相桜ほんのりと 白き頸の立ち姿 春信描く一枚絵。
(陰暦晚春三月・昭和十七年十一月開曲)
小唄 朧夜や 三下り 唄・春日とよ 初代春日とよ詞・曲
朧夜や 木の間にゆらぐ 雪洞の
灯影まばゆき 桜花
手拍子打てば ちらちらと 散るを惜しまん 春の宵
(新暦晚春四月・大正末年か昭和初年作)
[解釈と鑑賞]
この小唄は、春日とよの処女作で、待合『春日』の女将時代の作である。
流石に文学芸者と言われただけに、美しい歌詞で、雪洞のついた大正期の上野公園の桜の夜を、美しく唄い上げている。
作曲は始めから本調子の替手をいれて賑やかに、ちらちらと、散るを惜しまん⋯を聞かせ所として、
古典小唄の桜 見よとて⋯⋯を思わせる曲となっている。
現在春日派では、〜鐘一つ(笠森おせん)⋯⋯のあとに続けて唄うしきたりとしているのは、心憎いことである。
小唄 柳屋お藤 三下り 唄・春日とよ栄芝 小林栄詞 初代春日とよ曲 糸は、私と喜扇先生です
[解釈と鑑賞」
この小唄は、小林栄の前作『笠森おせん』と対になるものである。
柳屋お藤は、おせんと同時の、明和年間に、浅草観音堂の後の、
銀杏の大木の下に、柳屋という楊子店を開いて『銀杏娘』と呼ばれたが、
鈴木春信の浮世絵に描かれて評判が高くなり、
おせんと、お藤の、何れが江戸隨一の美人かと、囃し立てられた。
しかし明和六年、お藤十九の年、春の観音様御開帳の時期に、柳屋から姿を消して、
その翌年、嫁入りしたといわれるが、その先は知れなかった。
この小唄は、春日とよ喜の唄、春日とよかよの糸、春日とよ福園の替で、小唄振りは、吾妻徳穂振付、自演で、大好評であった が、この小唄が、とよの最後の作品になろうとは、誰一人想像も しなかったのである。
小唄 柳屋お藤 三下り 唄・春日とよ栄芝 小林栄詞 春日とよ曲
糸・春日とよ喜扇 替手・春日豊芝洲
紺暖 簾吹く秋風に なよと 記した文字も柳屋の
香う 楊枝がすんなりと 銀杏娘の 立ち姿
合わす両手や 白魚の 指も切りましよ 誓いごと
観音様へ 願かけて そっと見上ぐるまなざしは
江戸紫の 藤の花 娘千両色盛り。
(陰暦晩秋九月・昭和三十七年三月開曲)
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