小唄徒然草60の配信です。
春日とよ家元作曲集 10
とよ家元の新派小唄の名作
河上渓介・春日とよの新派小唄七題成る
河上渓介、清元栄次郎とによって『歌舞伎小唄十二ヶ月』と『浄瑠璃小曲六題』が作られたことを知った、新派の花柳章太郎は、ある時、自分の後援者である河上渓介に向って、是非新派小唄も作って下さいよと依頼した。 渓介はそこでこれ迄に観た、花柳章太郎主演の新派のうち、最も印象の深かった古典新派『滝の白糸』『湯島境内』 『白鷺』『歌吉行燈』と
新作新派『春琴抄』『残菊物語』『鶴次郎』に合わせて七題を作詞し之を師匠の栄次郎に 見せた所、
この作曲は、私より新派に関係の深い春日とよさんが最適任ですよと言われ、栄次郎と花柳の口ききで、春日とよに依頼することになった。
時は、昭和十五年、とよは一曲一曲ごとに。入念に作曲し、出来上ったものは新橋と赤坂で、唄・春日とよ喜、 糸・春日とよ晴、替手・春日とよ栄によって「小唄振り」を添えて開曲された。
この中で、心して(鶴次郎)は、七、八月の暑い盛りを軽井沢の山荘で苦心の末出来上ったが、開封前に、赤坂の中川で渓介と花柳が、とよの弾き唄いを 聞き、
「これは傑作だ。名曲だ」と折紙をつけたという。
春日とよの新派小唄七題
1、心して(鶴次郎)
2、湯島境内(久しぶり)
3、滝の白糸(水芸に)
4、残菊物語
5、春琴抄
6、白鷺
7,日本橋上と下は、
先に、配信してあります
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1、心して(鶴次郎) 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲
名題]『鶴八鶴次郎』準古典新派。大正物。四幕八場。
昭和十三年一月明治座初演。川口松太郎作。久保田 万太郎演出。伊藤意朔装置。
配役は、鶴次郎(花柳)、鶴八(水谷八重子)、番頭佐平(小堀誠)、伊予善の松崎 (伊井友三郎)。
原作は川口松太郎の第一回直木賞受賞作品で、
当時評判の高かったアメリカ映画「ボレロ」にヒントを得たと言われる。
花柳の鶴次郎と水谷八重子の鶴八との絶妙なコンビにより『昭和新派の代表作品』となり、
上演回数が最も多く、昭和三十四年十月、一千回上演記念を新橋演舞場で催した。
「梗概]明治のから大正の始めにかけて人気のあった新内語りの一組、太夫鶴賀鶴次郎(二十九歳)に、
三味線鶴賀鶴八(二十四歳)は、珍らしい男女の組合せとして、その頃の色物席で八丁荒しの異名がつくほどの大入りであった。
表面は兄弟ということになっていたが、鶴八は先代鶴八の一人娘、豊で、二代目と呼ばれ、 鶴次郎は、先代鶴八の愛弟子で、
二人とも芸に生き芸に死のうとする芸道の修業から、今日も(大正八年正月)丸の内の有楽座の『名人会』に出演した二人は、
楽屋で今掛合で語った『道中膝栗毛』(通称弥次喜多)の『赤坂並木の段』で、鶴次郎の 東路を⋯⋯を、
鶴八がたしなめたことから大喧嘩となる。
その年の四月、鶴八鶴次郎は大阪の名人会に出演した帰りに、
先代。鶴八の法要に高野山に参詣したが、そ の折、鶴八が、かねて自分を贔屓にする湯島の百万長者、
伊予善の若主人、松崎が結婚を申し込んでいるので、い っそ身を固めようと思うと話をすると、
鶴次郎は『お豊ちゃん、お前に嫁にゆかれちまって、あッしゃ誰の三味線で語ってゆける⋯⋯』と
子供のように泣き出すので、二人は日頃の意地を捨てて、初めてここで夫婦の約束をする。
それから一ヶ月、鶴次郎の念願がみのって、鶴八は二万円に近い金を整え下谷の御成道に「鶴賀亭』という寄席を出すことになるが、
そのうち一万五千円は伊予善から借りたと聞いた鶴次郎は、顔色を変えて「借りたら借りた」と何故言わないんだ。
俺に嘘をついて伊予善の妾をしていたんだと鶴八に言い、お前との仲もこれ限りだと家を飛出す。
二年後の晩秋――鶴次郎は場末のうらぶれた寄席に敗残の身 をさらし、弾き語りの高座もいい加減に毎日、自棄酒に酔いしれ ている。
そこへ今は伊予善の若奥様として平和な日々を送って いる丸髷姿の鶴八が、もとの番頭佐平と共に訪れ、
十一月十五 日から二十日まで有楽座に昔通りの『名人会』があるから是非 一緒に出てほしいと頼む。
こうして再び名人会に出演した鶴八 鶴次郎の名コンビは、『赤坂並木』『蘭蝶』「千両戦』『明鳥』「酔月情話』を出したが、
昔より一段と錆が加わって来たと大評判で、守田勘弥から帝劇で『蘭蝶』を出す時の出語りに、
二人を使えるかどうかと聞いて 程であった。
ところが鶴次郎は何思ったか、楽の日に突然鶴八の芸が落ちたと難癖をつけるので鶴八も 余りの鶴次郎の暴言に
『恩知らず』と聞えよがしに言って怒って家に帰って了う。
その夜十二時近い夜更け、上野山下の『梅川』という腰掛茶屋で、佐平は鶴次郎と差しで飲みながら
鶴次郎を呆れた馬鹿だと戒しめると、鶴次郎は『俺は鶴八に心から惚れている。芸が拙いと言わなきゃ鶴八は、
また芸人に逆戻りする。今日芸が拙いといった喧嘩も、覚悟の上で仕組んだ事だ。
あいつぁ、もう生涯舞台へは、出ないで、て伊予善の奥様で死ぬだろう。
六日間の名人会が、俺と鶴入の死に花だ。俺はそれで本望なんだ。 なぁ佐平とあっさりと光った涙を
右手の甲になすりつけて盃を口にする。
『ナーニ、之から流しをしたって、男一匹、明日は明日の風が吹く。』という鶴次郎の前途を暗示するように、
流しの新内が遠くから聴こえるのであった。
解釈と鑑賞]
この小唄は。大詰第三場の『梅川』いう腰掛茶屋の場で、こうした花柳章太郎の鶴治郎の心を唄った男唄である。
河上渓介の簡素な作詞に、春日とよの新内を基調とした絶妙な作曲で、特に後弾きが、雪の夜の風に乗って聞こえてくる
新内の流しの余韻嫋々たる風情で終る、新派小唄の最高の名作となった
( 注一)四世岡本文弥師は、『鶴八鶴次郎』初演の時、演出の 久保田万太郎から是非にと頼まれ、
川口松太郎とも古い付合 いの仲とて、その新内の舞台を勤めた想い出を、
『序幕の二人が喧嘩の種は、原作では確か『蘭蝶』となっていたが、私が『赤坂並木』の
東路をいつしかあとに三河路や⋯⋯ のくだりに訂正して貰った』と記している。
というのは、ここは 『膝栗毛』三段の作者である富士松魯中が謡と指定しているのを、
七世富士松加賀太夫が美音に任せて あアずまじイおオーと怒鳴って以来、一般新内人が之に盲従していたが、
名古屋の名手、富士松春太夫は流石に立派で、之を謡としていた。
『赤坂並木』は太夫と三味線の掛合浄瑠璃で、鶴次郎がその ドナリの型でへ東路を⋯⋯とやったのを、鶴八がたしなめた事から
二人が喧嘩になるという段取りにしたという訳である。
心して(鶴次郎) 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲
心して 我から捨てし恋なれど 堰きくる涙堪えかね
憂さを忘れん盃の 酒の味さえ ほろ苦く
(新暦初冬十一月.昭和十五年作)
★聴き比べ、
唄 春日とよ家元
唄 春日とよ福美
唄 春日とよ栄芝 (栄芝の会リサイタルより)
2、湯島境内 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲
[名題と梗概]『おんな系図』古典新派。
明治物。花柳章太郎のお蔦初演は、昭和八年九月、明治座であった。
[解釈と鑑賞]この小唄は、花柳章太郎の『湯島境内の場』のお蔦を唄ったものである。
昭和八年、九月明治座の 『おんな系図』通し、七幕、十一場で、
脚色は川村花菱、舞台装置はしげおか鑒一。
配役は、早瀬主税(梅島昇)、お蔦(花柳章太郎)、スリ万吉(伊志井寬)、酒井俊蔵(大矢市次郎)、
芸者小芳(英太郎)妙子(尾上菊枝)、めの惣(小堀誠)であった。
花柳のお蔦は、この大役を諸事師匠、喜多村緑郎うつしに演じて。及第点をとり、
以後、持役とし、主税を梅島昇から柳永二郎、伊志井寛として昭和二十五年までお蔦を勤めた。
その後、柳と伊志井が新派を去ったので、最後の切札として、お蔦を水谷八重子に譲り、
花柳が主税を勤めることにしたのは、昭和二十五年五月 の新橋演舞場であった。
河上渓介の作詞は
小唄 上がる石段⋯⋯を凌駕する、うまい作詞で、春日とよの作曲がまた秀れていて、
新派小唄七題の内、鶴次郎(心して)⋯⋯に次ぐ自信作となっている。
『湯島境内』の芝居は、後半は力が入るが、ほんとうに難しいのは前半であると言われている。
この小唄も前半の、久し振り髷も似合った二人連れ⋯⋯の、 二人の出をさらさらとゆき、
梅もほころぶ 嬉しい思いも⋯⋯を、カンで二人連れのお詣りが嬉しくて明るくはしゃぐお蔦を唄うのが、この曲のコツである。
このあと一転して、義理に堰かれた切れ話⋯⋯から、お蔦が涙、泣く泣くも⋯⋯が、この曲の聞かせ所で、
春の宵⋯⋯を高上りで終るのである。
湯島境内 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲
久し振り 髷も似合った二人連れ
梅も ほころぶ 境内で
嬉しい思いも束の間に 義理に堰かれた
切れ話 お蔦が涙泣く泣くも
潜る鳥居の影暗く 月も朧の 春の宵。
(新暦初春二月・昭和十五年 作
★聴き比べ
唄 春日とよ家元
唄 春日とよ福美
唄 春日とよ栄芝 (栄芝の会リサイタルより)
3、滝の白糸(水芸に)二上り 河上渓介詞 春日とよ曲
[名題と梗概]『滝の白糸』古典新派。明治物。泉鏡花作。
川村花菱脚色。花柳章太郎の新派初演は、昭和八年、八月東京劇場であった。
[解釈と鑑賞] この小唄は花柳章太郎の滝の白糸を唄ったものである。
昭和八年、八月東京劇場の配役は、白糸(花章太郎)、村越欣弥(梅島昇)、太夫若林(大矢市次郎)、南京松(柳永二郎)、鳶頭(小堀誠、)同女房 (英太郎)であった。
花柳は『滝の白糸』を初演するに当って、師匠、喜多村の創始した、新派古典をただなぞらうだけでなく、
之を現代に生かそうと考え、かわむら かりょうにお願いして、新に第二場に『水芸の場』と第四幕に 『金沢の料亭の場』を書加えた。
『水芸の場』では、いするぎに近い街道筋の『序幕』よりぐっと若い太夫姿になった白糸が、美しい竜宮城の前で、
本水を使っての水芸は、喜多村の演ずるじめじめとしたこの狂言をぐっと明るいものにして、大喝采を博した。
肝腎の『卯辰橋の場』では師匠と同じく将棋の駒散らしの縮緬浴衣で、橋の上で欣弥と語らいをしたが、
大詰の『法廷の場』では、終始半面を、見物客に向って立つという、師匠と変った演出を見せた。
この小唄は『卯辰橋』から三年後の仲秋、再び想い出の金沢に着いた時の『金沢の料亭つば善の離れ座敷の場を唄ったもの。
水芸に、夜寒の哀れの、ありにけり
夏の盛りの、水芸を命とする興行は、秋と共に客足が薄れ、一座で商売仇の出刃打の、南京松の下につかねばならない。
そこへ、欣弥からの手紙で、300円という大金が入用のことで、白糸は思案の協句、太夫元の、若林に、この金を借りるために、
料亭「つば善」に出向く。惚れた男の為なら、たとえ処女の身体を投げ出しても悔いない。 白糸の覚悟は決っていた
小唄歌詞の、水芸に、寄辺渚の捨小舟⋯⋯は、白糸の胸中を唄ったものである。
この場の白糸の衣裳は、鏑木清方自慢の浴衣で、白地に濃納戸(こいなんど)の首ぬきで、三っ扇、柳が独鈷に、白扇を染め出したものである。
卑しい稼業
つば善へ行く途中、月の空を、ぐわんぐわんと鳴き連れる雁の群に向って、
自分が水芸人という卑しい稼業をしている故、いとしい人にも、そう繁々と文を出すことも出来ぬが、今の、私のこの心を東京のあの人に伝えてよ、
と訴える所が。〜月を眺めて独り言⋯⋯である。
滝の白糸と言えば『卯辰橋』と定って いるのに、この小唄はその場を避けて、川村花菱かわむら かりょう)の案になる『金沢料亭の場』を唄ったのは、
流石に芝居通の河上渓介の作詞である。 春日とよの作曲は、賑やかな前弾からへ水芸に⋯⋯としっとりと出て、心任せぬ淋しさを⋯⋯をカンにして
白糸の心を聞かせ、〜月を眺めて独り言⋯⋯で終る。全曲華やかな聞かせ所のないこの作詞を、とよは 小唄振りを意識して、糸を派手にし、
唄は淋しく悲しさ一杯の白糸を唄い上げている。このあと舞台は『つば善の離れ座敷』で、白糸が三百円の借金をお願いすると、白糸が欣弥への仕送りを知っている若林は、その条件として「わしの言うことを聞けといったら⋯⋯』と迫ると、白糸は躊躇なく『太夫元さん、お供しましょう』と答える。この白糸の姿に若林も心をうたれ、
黙って金包を白糸の前に出すのであった。
滝の白糸(水芸に)二上り 唄・春日とよ福美 河上渓介詞 春日とよ曲
水芸に 寄辺渚の捨小舟 いとしき人に便りさえ
心任せぬ淋しさを 雁鳴き連れる秋の空
月を眺めて独り言。
(新暦仲秋九月・昭和十五年作)
4、残菊物語 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲
一筋に 思うお徳の 真心に
引かれて我も 名門を
捨てて浪花の 佗住居
残んの菊も色褪せて。
(新暦初冬十一月・昭和十五年作)
[名題]『残菊物語』準古典新派。明治物。四幕九場。昭和十二年十月、明治座初演。村松梢風作、厳谷三一脚色、川尻清潭演出、伊藤意朔装置。
配役は、尾上菊之助(花柳章太郎)、お徳(水谷八重子)、五世尾上菊五郎 (喜多村緑郎)、按摩元俊(小堀誠)『演劇百科』『芝居小唄』)
[梗概] 二世尾上菊之助(明治元年、明治三十年)は、五世清元延寿太夫の弟で、幼名秀作。三歳の時五世菊五郎の養 子となり、
子役の時から有望視され、天性の美貌と家柄とが満都の人気を一人じめにしていた。
ところが明治八年、十月十九歳の時に、弟、幸三(のち六世菊五郎)の乳母として新富町の五代目の家に住込んでいるお徳との間に灼熱の恋が生れる。
お徳は本名佐藤りえ。八丁堀の人力車製造業をしていた者の妹で、菊之助より 六つ年上で、その上、一度嫁にいった事があった。
二人の仲は音羽屋の体面と、菊之助の人気のために許される筈はなく、お徳は、菊之助の留守中に暇を出される。
それから一年、雑司ヶ谷鬼子母神で、やっとお徳を探しあてた菊之助が、
近くの茶屋で、手をとりあって再会に泣いていると、折から参詣にきた父、菊五郎の一行に発見され、厳しい叱責を受ける。
意を決した菊之助は、お徳と共に着のみ着のまま 横浜から大阪の尾上多見蔵を訪ね、
その骨折で、尾上松幸と名乗って大阪の芝居に出して貰う。
しかし 門閣から離れた菊之助に役らしい役のつく筈がなく、 また菊之助の未熟な芸は、大阪の観客に見離され、
二人は道頓堀の芝居に近い、二つ井戸長屋で貧乏な生活を続け、お徳は、内職の仕事をしながら菊之助を励まし続ける。
二人が大阪へ駈落してから五年目の、明治 二十三年の春、東京から書留郵便が来て、
成駒屋の 親子が五代目に詫をいれるから、東京へ帰れとの書面に、菊之助は五年間の労苦から病の床に伏す、お徳を残して東京に帰るに忍びず、
浮くも、沈むも、一緒だと言い切るが、お徳は『取るに足らぬ私の為に、名優、菊五郎の子を落ちぶれさすに忍びない。自分に構わず東京に戻って欲しい』と頼むので、
菊之助は再び逢う日を約束して 東京の父の許へ帰る。 それから二年たった、二十五年五月、菊五郎、菊之助の父子が揃って大阪へ、舟乗り込みで、晴の姿を見せる日は
お徳は、東横堀の、按摩元俊の二階で病み続けていた。
道頓堀の角座の三日目、お徳の急変を開いた菊之助は、父の許しを得てお徳のもとへ駆けつけ、父の菊五郎は『お徳女房に会ってやれと唯一言、
お父あんは、お前を女房にしてくれたんだよ』とお徳を励ますが、お徳はかすかにうなづき、菊之助の腕に抱かれて目を閉じるのであった
[解釈と鑑賞]この小唄は花柳章太郎の珍らしく男役の尾上菊之助を唄った男唄である。
この芝居は花柳が男役の菊之助に廻り、水谷八重子がお徳で、これ以上の適役はないといわれる出来を示した。
加うるに喜多村緑郎の、五代目菊五郎は演技を超越して、故人そっくり風格があり、圧巻の出来でこの芝居は大当りをとった。
小唄は第三場『咲く花、凋む花』(大阪二つ井戸長屋の場)で、菊之助がお徳の真心にひかれて名門を捨てて大阪に移り住み、辛苦の五年間を送る所で、
残んの菊も色褪せた、佗しい生活を、河上渓介が唄っている。 春日とよの作曲は、チントンシャーン 一筋に⋯⋯と、ゆっくり出て、思うお徳の⋯⋯を高く、捨てて⋯⋯を カンに〜佗住居⋯⋯イイイ⋯⋯と唄い、残んの菊も⋯⋯を大甲で、ンをいれて、色オオオ褪せて⋯⋯と 中音で、静かな後弾で終る。
作詞作曲ともに、お徳を思う菊之助の心情が溢れて、筆者の好きな小唄の一つで ある。
4、残菊物語 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲
一筋に 思うお徳の 真心に
引かれて我も 名門を
捨てて浪花の 佗住居
残んの菊も色褪せて。
(新暦初冬十一月・昭和十五年作)
★聴き比べ
春日とよ
春日とよ福美
4、春琴抄(春くれば) 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲
春くれば 谷間のねぐら 立ち出でて
訪(おとず)る事も あらんかと
ほのかに薫る 梅が香を 偲びつ我は
丸窓の 陰に調べん ゆかし爪琴
★聴き比べ
春日とよ家元
春日とよ福美
5、白鷺 本調子 河上渓介詞 春日とよ曲操(み)をまもるために
我から手弱女が命を
贄(にえ)に魂(こころ)のみ
通いて立てる幻を
描きつ 成りし 写し絵も
沢辺にたたずむ 白鷺の
姿ぞゆかし 筆のあと
★聴き比べ
春日とよ家元
春日とよ福美
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