小唄徒然草46 吉田草紙庵(よしだそうしあん)作曲 6

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今回は、あまり小唄の会では、唄われることの少ない
吉田草紙庵作曲の小唄を3題です。

1、 小唄 綱渡り (評判、評判)
2、 小唄 落人の見るかや
3、 小唄 おちこちに (助六)

1、 小唄 綱渡り (評判、評判)二上り

(季·昭和十六年、夏開曲
[解釈と鑑賞]
この小唄は、浅草の盛り場の、小屋掛け興行の『綱渡り』の場面を細井鵲郎(ほそいじゃくろう)が作詞したものである。 『綱渡り』は高く綱を張り渡りながら芸をする軽業の一つで、始め印度に始まり中国を経て日本に伝来した ものである。 草紙庵の作曲は、まず前弾は『竹簀(たけす)』という下座囃子で景気よく客を呼び込んでいる所を賑やかに弾き、「 評判 評判 ~ つかえやす」までは木戸番の口上、「太夫ぢや 太夫ぢや」は、太夫の、後見の口上の言い建てで、色裃(いろかみしも)を着た銀杏返しの女太夫の綱渡りを唄ったもので、「青柳の風に吹かれる綱渡り」は端唄の 『香に迷う』の手でゆっくり唄う。”しっかりよ””おっと危ねぇ”は続いて、後見の口上である。『鶴鴒(せきれい)』は小鳥の名で、長い尾を上下に振る習慣があり、「鶴鴒(せきれい)の水遊び」は太夫が綱の上で、扇子や傘をパッとひろげる曲芸の仕草をたたえた後見の口上である。 こうして唄と後見の言い建てが交錯して、最後に、「どっと褒めたり」は見物のどよめきで、「大当り」は見物の掛声を唄にしたもので、後弾は同じく下座囃子である。鵲郎の作詞と草紙庵の作曲は、誰でも 一度は唄ってみたくなる、面白い小唄となっている。

1、

1、 小唄 綱渡り (評判、評判)

唄・初代 初代飯島ひろ子  作詞・細井鵲郎(じゃくろう)詞   作曲・吉田草紙庵曲

評判 評判 木戸銭は、二十と六文 さあさあ 後がつかえやす つかえやす
太夫じゃ 太夫じゃ、おぃーい 青柳の風に吹かれる 綱渡り “しっかりよオー”
天の羽衣 富士の山 西行さんの 股覗き”オット危ねえ
夢は 巫山(ふざん)の 雲の曲 淀の車は クルクル廻る
鶴鴒(せきれい)の水遊びと御座い
ハイ 七分三分のかね合いを どっと褒めたり 大当り。

2、 小唄 落人の見るかや 本調子

[季]陰暦、晚春、三月十四日夜半
[名題]『道行旅路の花婿』清元所作事。

天保四年(1833年)三月、江戸河原崎座。忠臣蔵三段目の裏
『勘平駈附けの場』の改作。三升屋二三治(みますやにぞうじ)作、清元栄次郎作曲、二代目清元延寿太夫出演。語り出しの数行は 『傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)』梅川忠兵衛の道行の冬景色を、そのまま春に直したものであるが、栄次郎の節付が勝れて いるため大評判となり、今日も流行している。
[あらすじ】その朝七つ(午前四時)塩谷判官の近習(きんじゅう)早野勘平は、主人の供をして足利城大手門に控えていたが、 たまたま奥方、顔世前の師直への文箱を、携えて来た腰元おかると逢い、供を離れてただ二人、積る話の最中に、城内は判官刃傷によって上を下への大騒動。勘平は走り帰って殿の安否を訊ねると、殿はすでに囚人同然の網乗物で帰ったと聞き、勘平の武士は、すたった、最早やこれ迄と刀の柄に手をかけるのを、おかるがとどめるので、ひとまづおかるの里へ身を隠し、時節を待って由良之助殿にお詫せんと、柳の都、鎌倉を逐電(ちくでん)し、人目を忍んで京の山崎に落ちる。 途中、東海道戸塚の山中に、しばしの足休めをしている所へ、かねてお軽に恋慕する師直(もろのう)の家来、鷺坂伴内(さぎさかばんない)が後 を追って現われ、おかるを連れ戻そうとするが、却って勘平に打据えられて逃げてゆくという一幕である。

小唄解説] 舞台は東海道戸塚の山中。全山これ桜。松並木。富士山の遠見。夜更けの景である。近習(きんじゅう)早野勘平は、黒の着附、褄からげ、鷹の羽の定紋のついた大小、印籠、水浅黄縮緬の風呂敷包み、渋塗りの紙合羽。浅黄緒の重ね草履。腰元おかるは振袖裳、箱せこ、文金高島田、紅絹緒(もみお)の重ね草履、しどけなき拵(こしらえ)『落人も見るかや野辺に』は清元の出と同じで、昼は人目を憚り、夜の道を急いでここまで来た落人の、絵の様な夫婦づれを唄ったもの。橘は十五世羽左衛門の勘平、菊がさね扇は音羽屋の紋で、先代梅幸又は六代目菊五郎のお軽である『可愛い可愛の女夫づれ』も清元の詩章をとったもので、鷺坂伴内(さぎさかばんない)を打据えたとき、はや東は白々としらんで、塒を離れて鳴く鳥の声も『可愛い 可愛い』と、この若い夫婦連れをうらやむ様に聞こえるという意味を込め唄ってほしい。(昭和八年七月、歌舞伎座盆興行の時の作。 『花曇り』は、清元の『そらさだめなき花曇』で、勘平が恋に心を奪われて、お家の大事に居合わさず、重き 自分の罪科に心を曇らせているのを、三月の空の花曇りにかけたものであるが、相手のおかるは、憂きが 仲にも旅の空、堅いお屋敷率公から解放されて、恋しい男と晴れて夫婦になって故郷の両親のもとに帰れるので、身も心もはずんで『こんな縁(えにし)が唐紙の、鴛鴦の番いの楽しみに、泊り泊まりの旅籠屋で、ほんの旅寝の仮枕、嬉しい仲ぢや ないかいな。』 と色っぽく口説くところは、この一幕の見せ場で、 勘平は武士の生れ、おかるは屋敷奉公こそすれ、もとは山崎の百姓の娘で、『色で逢う』ことはできても、晴れて夫婦になることは叶わなかったであろうが、『お家騒動』というこの出来事によって二人が堅く結ばれたわけで、『こんな縁(えにし)』とは、注釈]落人は、人目をさけて逃げてゆく者。戦などに負けて逃げてゆく者。 男郎花(おとこえし)は、女郎花(おみなえし)の様に、ゆうにやさしき男の勘平を指す。 富士額は、額の髪の生えぎわが、富士山の頂上の形に似ていること。おかるを指す。立矢の字(たてやのじ)、矢絣(やがすり)ともに屋敷につとめる御殿女中の服装で、矢絣は矢羽根模様の紺の振袖、立矢の字(たてやのじ)は 帯の結び方である。 道行は、能から人形浄瑠璃、それから歌舞伎に採り入れられた形式で、舞台を目的地とし、主要人物(主として男女)が、揚幕を出てから舞台へつくまでの道程、風景描写、感想などを花道で表現すること。 戸塚は、江戸時代は鎌倉から二里、柏尾川(かしおがわ)付近から東海道に出るのが道順であった。戸塚を少し過ぎる と、八丁並木と言われる松並木があり、ここが所作事の舞台となっている。

2、 小唄 落人の見るかや 本調子

唄・春日とよ栄芝  作詞・市川三升  作曲・吉田草紙

落人も 見るかや野辺に橘の 姿やさしき  男郎花(おとこえし)
露打かけの菊がさね 重ね扇の富士額 可愛い 可愛いの 女夫づれ。

3、 小唄 おちこちに (助六)本調子

[季」陰暦、晩春、三月半ば
[名題]歌舞伎十八番の内『助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』 時代物。
宝暦十一年(1761年)三月、江戸市村座。金井三笑(さんしょう)・ 初代桜田治助(さくらだじすけ)合作。河東節の初代山彦河良(やまびこかりょう)作曲。 助六の狂言は、二代目市川団十郎が正徳三年(1713年、四月、江戸、山村座
『花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)』(作者、津打(つうち)半右衛門(はんえもんの)で演じたのが初演で、二代目はその後、正徳六年二月、江戸、中村座『式例和曽我(しきれいやわらぎそが』(作者、津打つうち治兵衛)、何れも江戸半太夫の『半太夫節』を用いた。 助六の出端に『河東節』が出演する様になったのは、寬延二年(1749年)三月、中村座『助六廓家桜(すけろく、くるわの、いろざくら)』 で、最後が『所縁(ゆかり)江戸桜』なったもので、助六を歌舞伎十八番に指定して、市川家の家の芸に定めたの は七世団十郎。近世では九世団十郎の助六が決定的な名品と称されている。 助六の相手役の揚巻は、在来の助六以上の難役とされており、美貌、伝法、貫録と三子そろった女形でなければ完璧でなく、五世岩井半四郎の揚巻が代表的なものとされている。

「あらすじ]花川戸の助六(実は曽我五郎時致(ときむね))は、源家の重宝、友切丸詮議のため、廓べ足繁く出入りし、喧嘩を売っては人の腰の物を改めるので、それともしらぬ母満江(まんこう)と白酒売の新兵衛(実は曽我十郎)は、助六の短気を懇々と戒める。 この助六と契りを結んだ今吉原に全盛の、三浦屋の揚巻に、蛇の様に執心な髪の意休(実は伊賀平右衛門)の腰の物が、尋ねる友切丸と知った助六は、揚巻の恋仇と意休に喧嘩を売り、遂に意休を斬って友切丸を奪う。

[小唄解説]小唄始めの入題は、すべて助六の花道の出を唄っている。 黒羽二重の小袖に紅裏(もみうら)杏葉牡丹友禅ぎょようぼたんゆうぜんの五所紋(いつとこもん)下に浅黄無垢の一つ前、綾織の帯、鮫鞘(さめざや)や、一つ印籠、 尺入を後に差し、紫縮緬の鉢巻を左に結び、蛇の目傘をさし、桐柾(きりまさ)くりぬきの下駄に黒の塗り鼻緒、左手で小褄をとり、吉原仲の町、花の雨という気持である。 『花の雨』とは、花時に降る雨でなく、『雨の様に散る桜の花びら』と考えると、助六が傘をさして出る姿が、ぴったりと絵面にはまると思う。 しかも名に負う相手の意休を向うに廻して、『いかさま、この五丁町へ脛(すね)を踏ん込む野郎めらは、おれが名を聞いて置け。先づ第一瘧が落ちる。まだよい事がある。大門をずっと潜ると、おれが名を手の平へ三遍書(け)えて甞(な)めろ。一生女郎に振られるという事がねえ。見かけはけちな野郎だが胆が大きい。遠くは八王子の炭焼売炭(すみやきばいたん)の歯っかけ爺、近くは山谷の、古やりて梅干婆ァに至るまで、茶呑み話の喧嘩沙汰 男達の無尽のかけ捨て、ついに引けを取った事のねえ男だ。江戸紫の鉢巻に、髪は生締(なまじめ)、ソレ刷毛(はけさき)先の間(えーだ)から覗(のぜーて)見ろ。安房上総が浮絵のように見えるわ。相手が殖えれば竜に水、金竜山の客殿から、
えーだ

目黒不動の暇蔵(ねむりぞう)まで御存知の、江戸八百八町に隠れのねえ、杏葉(ぎょうよう)牡丹の紋付も、桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若い者、間近く寄って、しやっらを、カッカッカッカッ拝み、奉れ エエ、、。』という荒事まじりの、洒落気十分な啖何をきる。 この酒落っ気と、町人の代表である助六が、廓内では、武士も町人もないと、武士の代表である意休に万丈の気焰を上げるところが、当時の江戸っ子にやんやの喝采をもって迎えられた、というのがこの芝居の味であり、小唄の味である。
[助六劇の舞台である新吉原について」江戸唯一の傾城町として徳川家の誰可を得て、当時、江戸市内、各所に散在した遊女屋を葺屋町(ふきやまち)の下二町四方に集めて一郭としたのが、元和(げんな)三年三月(1617年)で、当時その辺一面の葭の原であったので、葭原(よしはら)と名づけられた。これが元吉原である。 それから四十年経た明暦二年十月(1656年)町奉行より所替えを命ぜられ、今の日本堤附近(当時浅草の千束村)を代地として下附(かふ)され、田甫を埋めて三年八月移転したのが『新吉原』である。
http://hoteiya.blog47.fc2.com/blog-entry-342.html?sp
縦百三十五間、横巾、百八十間の一廓で、廓の中央を貫通する主要道路の町名を『仲の町
とよび、両側に 引手茶屋が並んでいた。また仲の町を真ん中に、江戸町一丁目二丁目、京町一丁目二丁目、及び揚屋町に分れ、之を五丁町とよんだ。
(引手茶屋は揚屋ともよび、客を妓楼へ導く役目をした。) 『近世風俗志』に『毎年三月朔日より、仲の町の往来の真ん中に桜樹を植え列ね、左右に埒(らち)(垣(かき))を結晦(つごもり)を過ぎれば抜き取り、明年また、新たに植えるなり

https://intojapanwaraku.com/culture/194738/#:~:text=『江戸名所花暦』では、,千本を植うる。

寛延二年(1749年)に始まり今日に至る』とある。 二代目団十郎は、寛延二年吉原に始めて桜が移し植えられる事になったのに因んで、名題を『助六廓家桜(すけろくくるわのいえざくらとしたのである。
この桜は『夜桜』とよび、盆の玉菊燈籠、秋の仁輸加と共に吉原の三大景物であった。 吉原の入口は大門で、『見返り棚』があり、江戸時代は之を未明にあけ、夜は四っ(午後十時)に閉じ、町奉行直属の役人が出張して番所に詰めていた。大門の手前に、編笠を貸す編笠茶屋が両側に二十数軒あった。
吉原に通うものは日本堤から衣紋坂を下って大門に入るのが順序で、日本堤は元和六年に作られたもので、山谷橋から衣紋坂までの堤で、俗に『土手八丁』といわれたが、実際は十三丁あった。新吉原は京都島原の廟び形どり、太夫職という位どりができ、女の名を源氏名で呼んだ。 従って当時の遊女の品格は、今日より選かにすぐれていた事は言う迄もなく、この不夜城の観楽境には、当代の一流の人士(じんし)は、みな出入して、一種の社交機関となっていた。そこで廓の建築、装飾、 風俗習慣、年中行事、音楽歌舞など、みな渾然たる綜合芸術の燦然たる美を為していたものであった。

[注釈]
・ゆかりの黒小袖は、団十郎が老女江島から拝領したぎょうようぼたんの五つ紋の小袖。
・許しの色里は、公許の廓で新吉原のこと。
・根ごしては、根こじての誤り。根ぐるみ掘って移し植えたの意江戸桜はこの桜につけた異名。
・松の刷毛先は、チョン髷の先を言う。
・透き額は、青く剃った広額の意。
・間夫は、一切男が女によりかかって立てすごしてもらう情人。
・名取草は、牡丹の異名で団十郎のこと。ここでは揚巻の間夫と名を取った助六の意。

・傘さしてかざすやは、花吹雪の中を傘をさして廓を通ること。
・ この鉢巻は過ぎし頃は、河東節のきかせ所。『この鉢巻は過ぎし頃、由縁の筋の紫の、初元結の巻初め、
初冠りぞ若松の、松の刷毛先透き額』とあって、この紫の鉢巻は、由縁のある人から許されたものである との意。
・ゆかりの色は紫色のこと。
・箱提灯は、箱形の大きな提灯で、遊女や客の送り迎えに使った。
・みます嬉しさは、見ると三升をかける。この唄は明治二十九年九代目団十郎が歌舞伎座で助六を出した時 の唄である。
・花の雲、鐘は、上野か浅草か!芭蕉の句。
・煙管の雨は、助六は男の中の男一匹で、大門へぬっと顔を出すと、
仲の町の両側から、近附きの女郎の吸付け煙草が、雨の降るようであったという。
・橘は、この唄は十五世市村羽左衛門の助六を唄った唄である。
・深見草は牡丹の異名。
・青柳を見かえるは、見返柳を指す。
・君ならは河東節のきかせ所。『君なら〜、しんぞ命を揚巻の、是助六が前渡り、風情なりける次第なり』とあり。
君なら、助六さまの為なら、真実神かけて揚巻が命もあげましようの意。
・店清搔は、遊女が格子に並んで見世を張る間弾く三味線の音。
・ 一つ印籠は、腰に瓢簞の類と一緒に下げず、印籠のみ下げたもの。
・一つ前は、着物の上着下着を一つに重ねて合わせること。喧嘩の時に足捌きが良いようにとある。
・箕輪は、三の輪、吉原の西北でむしろ千住に近い所であるが、新吉原への通う道であった。
江戸時代は雨具の簔に托して『雨の箕輪』とよばれた。
・ 辻占茶屋は、河東節に『子どもが便り待合の、辻占茶屋に濡れて寝る』とある。
『待合の辻』と『裏茶屋』を一つにした言葉。待合の辻は江戸町の四つ角で、禿(こども)がここで客の姿を見つけて花魁に報告するところ。
裏茶屋は仲の町の引手茶屋以外の横丁の茶屋の意。
・脂下り(やにさがり)は、前下り(まえさがりに)煙管をくわえること。転じてうぬぼれてにやにやすること。この文句は蛇足である。
・青簾は、吉原のこと。河東節『青簾春の曙』。
・高蒔絵は、器物の上に、模様などを砥粉・炭粉をまぜた漆で盛りあげ、その上に金蒔仕上を施したもの。
ここでは桜花の中の助六の姿を高蒔絵をみるようだと形容した言葉。

・裲襠(うちかけ)とは、女子最上の礼装として、小袖・帯を締めた上に打掛けて着る故こう呼ばれた。元は諸大名武家の 婦人が用いたが、江戸時代その使用範囲がひろまり、廊で花魁が用いた。ここでは、助六が揚巻と睦言中 に意休が出てきたので、助六を無理に裲襠(うちかけ)の下に忍ばせることを指す。
・意地と張りとの伊達競べは、仲の町で揚巻を中に助六と意休が派手に張合うさま。 その一節の音色は、河東節を指す。十寸見(ますみ)は河東の称呼。山彦は河東の三味線で、婦人の名取はみな山彦を名乗る。

[河東節と助六]河東節は、享保二年(1717年)十寸見河東(ますみかとう)によって創始された江戸浄瑠璃である。はじめ江戸半太夫の門に入って半太夫節(元祿・宝永期の江戸浄璃璃)を学び、のち一派を立て、独立した。 十寸見(ますみ)とは、真澄の鏡の曇らぬごとく、その節を間違わず語り伝えるという意味から名づけたのである。
河東節は二代目団十郎と組んで、吉原に桜の移し植えられた寛延二年『助大廓家桜』の歌舞伎劇に出演 して以来、助六とは切っても切れぬ縁となった。『助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』は四代目河東の出演で、河東の助六 か、助六の河東かと言われるほど有名になった。 河東節の三味線は、代々山彦姓を名乗り、初代山彦源四郎が初代河東の相方を勤めた。山彦の家名は初代の持っていた古近江(こおうみ)作の名絃山彦(めいげんやまびこ)の名をとったものと言われ、『助六所縁江戸桜(けろくゆかりのえどざくら)』は、初代の門人山彦河良(やまびこかりょう)という名手の作曲である。 河東節の気品高く、渋く応揚な節廻しは、当時の江戸っ子の趣味に合致して隆盛を極め、助六上演の時 の河東節の出演者は、劇場以外の、相当身分のある人が出演する習慣となっていたので、頭取又は後見は、三浦屋の大格子の中に列んでいる浄瑠璃の連中に『河東節御連中様、どうぞお始め下されましょう』と挨拶し、それから御簾がまき上って、前弾きにかかることになっていた。
『音羽屋系の助六』市川家歌舞伎十八番の助六を仮に『真』」と名づけると、その『行・草』に当たる助六が音羽屋によって演ぜられている。その主なものは、 『助六廓街(すけろくくるわのはなまち)』延享三年月(1746年)市村座。初代菊五郎の助六。宮古路文字太夫(みやこじもじたゆう)連中。 『家桜廓 掛額(いえざくらくるわのかけがく)』明治三年(1870年)守田座。五世菊五郎の助六。常磐津連中。 『助六曲輪菊(すけろくるわのももよぐさ)』大正四年三月、市村座。六代目菊五郎の助六。清元五世延寿太夫連中。
《助六劇の四種》助六を主人公とした劇には、
1、歌舞伎十八番の助六
2、世話の助六⋯⋯
『黒手組の助六』(黒手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)=河竹黙阿弥作)
3、実録の助六⋯⋯
『大口屋暁雨(おうぐちやぎょうう)』(俠客春雨傘(きょうかくはるさめがさ)福地桜痴居士(ふくちおうちこじ)作)
4、所作の助六⋯⋯
『花翫暦色所八景(はなごよみいろのしょわけ)』(長唄)『助六姿裏梅(すけろくすがたのうらいめ)』(長唄.常津)『助六桜の二重帯(すけろくさくらのふたえおび)(常磐津)等々

33、 小唄 おちこちに (助六)本調子

唄・春日とよ栄芝  作詞・市川三升作  作曲・草紙庵

遠近おちこちに 咲くや所縁の江戸桜
匂うゆうべの 風につれ 香も 橘の 深見草
思いそめたる 伊達小袖 傘にかかれる青柳を
見かえる姿 君ゆかし  君なら 君なら。

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