小唄徒然草49
1、曲独楽(雁首の) 二上り 宮川曼魚・詞 吉田草紙庵・曲
この小唄の説明
この小唄は明治期に浅草の奥山で有名だった
十三世松井源水の曲独楽(独楽の曲芸)を材に とって、
男女の愛情の機微を唄ったもので、
宮川曼魚が三年の『郊外』小唄号に発表した名作詞である。
草紙庵はこいつは面白い、是非手をつけようと思ったが、なかなか曲想が浮んでこないので、
歌詞を懐に 一年越しの或る日、ぶらりと曼魚の経営する鰻料理『宮川』に出かけ、
小唄幸兵衛と三人連れで深川仲町の 料亭長楽へ上った。
偶々、芸道楽で何でも心得ている芸者の、おもちゃが招ばれてきて、何のキッカケからか
〇一(まるいち)の大神楽のお囃子となり、衣紋流し、刀の刃渡り、お鞠は三つだ三つだ という合方で
一座が賑やかになった途端、フッと『曲独楽』の手が浮かび節がつき、スラリと二上りに出来上った
(『草紙庵夜話』)というから、早速その場で小唄幸兵衛に移して開曲した ものと想像する。
『雁首』は人の首又は頭のことで、『上でかぶりを』は太夫の頭の上で、
太夫 が首を廻すのと一緒にクルクルと廻る独楽。
『衣紋流し』は両手をひろげ、片手の指先から肩を通って反対の手の先まで廻りながら通ってゆく独楽の曲芸の一つである。
小唄は前弾きと送りが〇一(まるいち)大神楽の手で、終りが
見ている妾(わたし)の 気がもめる⋯⋯という軽妙瓢逸な作詞と作曲で、
草紙庵の代表曲の一つとなっ ている。
楽曲 雁首の(曲独楽)二上り 宮川曼魚・詞 吉田草紙庵・曲
雁首(がんくび)の
上で首(かぶり)を振る独楽の
衣紋流しや右左(みぎひだり)
やりそこないは御用捨と
危い刀の刃渡りを
見ている妾(わたし)の気がもめる。
(季なし・昭和四年作)
2、中洲から(中洲の春) 三下り 市川三升・伊東深水・遠藤為春・合詞 吉田草紙庵・曲
中洲から 深川見たり 春の月
朧ろむ 灯さえ 三つ股の
流す浮名も舟の内
解釈と鑑賞
この小唄は大正15年3月、中洲の料亭中村の、隅田川添いの座敷で、
市川三升、伊東深水(明治31年~昭和47年)、遠藤為春(明治14年~昭和49年)、堀田八二朗の四人が集って、
小唄遊びに春の 一夜を過した時に生れた。
中洲とは名の通り、隅田川の堆積によってできた三角洲で、
現在は深川清澄町との間に清洲橋が架けら れているが
江戸から明治までは、隅田川の流れが三叉になって三つ股とよばれ、茶店や酒樓が軒を並べ、
月見や涼みの場所として賑い、明治時代には眞砂座などがあって栄えた所である。
丁度月のよい晩で、三升 は清澄橋から対岸の灯を眺めながら、即吟で 中洲から深川見たり春の月 と詠んだ。
『これは小唄になるな、少し短かすぎるが⋯⋯』と一同が口を揃えて云った。
この夜、深水は画帳に柳を画いて、女将の八重に与えたが、惜しくも震災で、焼いてしまったという。
その後、少し過って、三升が、草紙庵を連れて、中村に見えて、
『春の月』のあとが深水と、為春によって出来たから、今夜、手をつけるつもりで来たということであった。
前弾きは川波が小さくピシャピシャと舟べりに 打ちよせるさまを利かせて
中洲からと出て、おぼろむ灯さえは、荻江の手を使い
流す浮名もをカンにしたが、送りが佃ではありふれているので、
『何か川の感じがするものはありませんか』と草紙庵が云う。
女将の関口八重は諸芸に詳しく小唄の名手として知られていただけに、
とっさに長唄の『岸の柳』の三下りの所を弾いてきかせると、
それとばかりにこれを戴いて、この秀曲が生れたのであった。
灯さぇ三つ股には、この時は、上の声で唄ったが、のち草紙庵から上声でなく唄ってほしいという註文が出 たという。
中洲を唄った、さらりとした粋な小唄ができたので、これはいけるから流行せようではないかと、
中村の 主人の関口や一中村の安井が、藤間寿右衛門に小唄振りをつけて戴いたという。
『草紙庵の小唄解説集』・ 『江戸小唄新聞』61号・山本魚交)
【堀田八二朗(明治18年~昭和48年) 名古屋の堀田時計店の次男で、俳名は千例。邦楽諸芸に堪能で、特に清元と小唄が優れていた。
兄と共に 時計店の経営に当っていたが、この頃東京へ出て深水の執事のような仕事をしていた時であろう。
【関口八重(明治16年-昭和49年)】 中洲の料亭中村の女将で、諸芸に詳しく小唄の名手として知られていた。
楽曲中洲から(中洲の春) 三下り 市川三升・伊東深水・遠藤為春・合詞 吉田草紙庵・曲
中洲から 深川見たり 春の月
朧ろむ 灯さえ 三つ股の
流す浮名も舟の内
3、楽屋を抜けて
解釈と鑑賞
『滝の白糸』古典新派。明治物。
原作は泉鏡花の『義血俠血』で、これを壮士芝居の川上音二郎一座 が
『滝の白糸』(八幕)と題して明治二十八年十月東京浅草で
無断上演して問題を起こした。
配役は村越欣 弥(川上音二郎)白糸(藤沢浅二郎)であった。
喜多村緑郎が白糸を初演したのは翌二十九年九月の大阪成美団の旗挙興行で、
その後屡々演じ、自分の芸 として確立したのは大正四年十一月新富座の
『錦染滝の白糸』で、これ以後喜多村の当り芸となった。
役は、白糸(喜多村)、欣弥(秋月桂太郎)であった。(『演劇百科』『芝居小唄』)
[梗概]明治二十二年頃、金沢(石川県) の卯辰橋を臨む浅野川の河原に立てられた
旅興行の見世物小屋では、眼の覚めるような肩衣に袴、
島田に銀簪の一座の太夫、二代目滝の白糸が、
美しい竜宮城の前で得意の水芸披露して、連日大喝采を博していた。
その見世物がはねて、天高く夏の月が、河原を蒼白く照らす十一時すぎ、
将棋の駒散らしの縮緬浴衣を素肌に着、
夜寒を赤毛布に包んでそぞろ歩きの白糸(二十四歳)が
橋の上で寝ている若者、村越欣弥(二十六歳)をみつけて
『まあ欣さん⋯⋯其後は御機嫌よう』と声をかける。
欣弥は数日前、石動でガタ馬車の御者をしていた時、
白糸一行が通りかかって、馬車と人力車との争いから、
欣弥が馬車の裸馬に、白糸を抱いて乗せて走ったのが原因で、
馬車会社をお払い箱になったと語り、
自分は 一生馬丁で送る心算はなく、
法律を勉強して将来は司法官になりたいと
眉をあげて語るのを聞いた白糸は、
「欣さん、学問するなら東京へお出なさい。いますぐここから。
そして仕送りをわたしにさせて下さい』と言う。
それから三年、欣弥は白糸の仕送りをうけて、
東京の下町の鳶職金太郎の家に下宿して学問に励んでいるが、
旅から旅の白糸は、冬ともなれば、客足も絶えて、苦しい巡業を続け、
三年後の晩秋、再び思い出の金沢に着く。
偶々東京の欣弥から、友人の借金に、印判を押して、三百円という金が、
入用との手紙を見た白糸は、太夫元の、若林に無理に頼んで、三百円の金を借受け、
兼六公園を通っての帰途、一座の出刃打の南京寅の一行に取囲まれ、
三百円の金を奪われる。 気を失って倒れた白糸が気がつくと、
片手に相手の浴衣の片袖と闇に光る一丁の出刃。
どうしてもこの金が 欲しかった白糸は、夢遊病者のように、
背中をもたせた。くぐりどの開いている、高利貸の桐淵剛三の庭先に吸いこまれるが、
老主人に、泥棒と見て組みつかれ、振り放そうと争ううちに、
老主人を出刃で突き、組付いてきた老夫人も殺めてしまう。
白糸は、この夜の名残に、一目欣弥に逢おうと、東京へ出て、
金太郎の家を訊ねるが、その日欣弥は、学業を終え、喜び勇んで、
故郷金沢へ帰ったと聞かされる。
桐淵夫妻殺しは、出刃が証拠となって南京寅が逮捕され、
白糸が参考人として出廷するが、その裁判官の 一人こそ、
白糸が、一目逢って死にたいと願っていた、新検事補の欣弥であった。
欣弥は、夢にも忘れぬ恩人白糸、本名水島とも(二十七歳)を、
血涙をのんで殺人罪として起訴するので、白糸は欣弥の法の正しさを喜んで
舌を 噛切って死ぬが、欣弥もまた、白糸の後を追って、ピストルで自決するのであった。
[解釈と鑑賞]
この小唄は、長田幹彦が、喜多村緑郎の『錦染滝の白糸』の『卵辰橋の場』を唄った、
秀作詞である 舞台一杯に橋を見て、欣弥と白糸とが橋の上で芝居をするやり方で、
喜多村の白糸の将棋の駒ちらし縮緬浴衣は『義血俠血の初版本の口絵からとったものであった。
また最後の『法廷の場』では、白糸が全然見物に背を向けたまま演技をし、
移りゆく心理を後姿で見せた手法は、
六世尾上菊五郎が、白糸やればこうであろうかと思わせた。
この小唄を改めてもう1回、鶴岡初茂の弾き唄いで聞いた。
まえびきは『水気三重』という水芸を匂わした囃子で、
楽屋を抜けて〜水芸の⋯までは『ぎっちょ』という囃子の手をはめて早間で、
明るく美しい白糸を唄い、”お目通り”⋯は、
白糸が、橋上の欄干にもたれて、まどろむ欣弥をみつけて
『欣さん⋯⋯御機嫌よう』と声をかける。その時つい水芸の太夫の日癖がでて、
扇子をつかって「お目通り』という調子になってしまう所を唄ったもので
幹彦の心憎い歌詞である。
ここから夜が更けて二人が別れの時が迫り、
〜笑顔で隠す今宵の別れ⋯⋯はこの曲の眼目で、
今宵逢って すぐ別れる白糸の心中をたっぷりと唄い、
あの夜鳥⋯⋯はごいさぎであろう。月に更け行く遠灯り⋯⋯は 高止りで、
送りは東京へ旅立つ欣弥を、笑顔で送る白糸の心を、糸で現わす。
これが草紙庵の構想であった。
この小唄は〜青柳の(仮名屋小梅)に次ぐ、草紙庵の新派小唄の傑作として大いに流行した。
【注】この小唄の作られた翌年の、昭和13三年8月明治座で、
喜多村はこの舞台に更に磨きをかけて完成した。
、題名は『掬縁滝の白糸』で欣弥は柳永二郎を起用した。
今回の『卯辰橋の場は、舞台を橋下の浅野川の河原とし、
橋上を通る車屋(伊志井寬)に謡曲をうたわせ、舞台の引込みに、
これまで、欣弥と白糸とが相乗車を使ったのをやめて空庫とし、
白糸と欣弥が花道の七三で寄り添い、赤毛布で二人の身体を包むことにしたのであった。
楽曲
滝の白糸 三下り 長田幹彦詞・吉田草紙庵曲
楽屋を抜けて橋の上
肌に冷やつく 縮緬浴衣
扇づかいは水芸の お目通り
笑顔で隠す今宵の別れ
浮世の瀬々を 鳴き渡る
あの夜 鳥も 旅の空
月に 更けゆく 遠灯り。
(新暦初秋8月·昭和12年2月作
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