小唄徒然草50 吉田草紙庵(よしだそうしあん)作曲集10巻

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小唄徒然草50
皆様方の応援、ご視聴のお陰様で
小唄徒然草も、50回を数える事ができました
これも、皆様からのご支援の賜と
厚くお礼申し上げます。

さて、今回の収録曲は、

1、玉蜀黍(夕べの暑さ) 唄・初代飯島ひろ子 平山晋吉・詞 吉田草紙庵・曲

2,さび鮎(灯を消して) 唄・初代 本木寿以 薗 千桂・詞 吉田草紙庵・曲

3,網島心中(鐘がなる) 唄・春日とよ栄芝 浦上紀庵・詞 吉田草紙庵・曲

ちょうど連載していました。吉田草紙庵作曲の小唄も
この3曲をもちまして、
小唄徒然草50回の節目で
区切りよく、終了いたします。

 

1、玉蜀黍(夕べの暑さ) 唄・初代飯島ひろ子 平山晋吉・詞 吉田草紙庵・曲

[解釈と鑑賞

作詞の平山晋吉は狂言作者で、
草紙庵は芝居関係から氏と近づきになったものと思うが、
この 小唄はこれまでの草紙庵ものにない『民謡調』の
瓢逸な歌詞で、それを草紙庵がおどけた剽軽な手付をした。
特に前弾と送りの手が面白く、筆者の大好きな曲の一つである。

【平山晋吉(慶応三年-歿年不詳)]
本名平山留吉、東両国に生れ、

河竹黙阿弥の門下になって
狂言作者の道に入り、
のち帝劇の楽屋顧問となって
種々の脚本を書いた。

小唄 1、玉蜀黍(夕べの暑さ) 唄・初代飯島ひろ子 長田幹彦・詞 吉田草紙庵・曲

夕ベの暑さに 畑へ出て見れば なあ
豆がはじけて 御歯黒つけて
風に吹かれて 玉蜀黍が
髪を乱していやしゃんす。
(新暦晚夏七月・大正十五年作)

2,小唄 さび鮎(灯を消して) 唄・初代 本木寿以 薗 千桂・詞 吉田草紙庵・曲

 

[解釈と鑑賞]
この小唄は【薗千桂】が、秋の淋しさと失意とをさび鮎に託して唄ったものである。
『さび鮎』 は『落鮎』ともいう。
川を遡って産卵した鮎が、九月頃上流から中流に向って群をなして下る。
産卵を終えて体の栄養が衰え、肌も黄ばみを帯びているので
『さび鮎」とよばれる。そのあとすぐ死が控えているので、
見た目にも大変淋しく感じられる。

喜む良勇吉は「この小唄は最初題を『離愁』としたが、
のち『さび鮎』と変えたもので、千桂さんが晩年になって、
好きだった愛人で何かの師匠をしていた御婦人と、どうしても別れなければならなくなり、
その 時作ったものなのです。
「忘れもやらぬさび鮎の味は、その中年の婦人の事を唄ったものです。と作詞 の動機を語っているが、
「灯を消して虫に聞き入る気落ちかなの唄い出しは、千桂自作の俳句で、いわる
『老楽の恋の破綻を綴った秀歌詞である。
この小唄が、今日秀作として唄われているのは、草紙庵が前弾と後弾とを糸で
器楽的に構成した面白さからである。
即ち、女と別れた男の心理描写を、虫の音と風鈴で弾き表わす前弾から「灯を消してと、そっと淋しく出る。
曲の眼目は「心うつろに昨日今日でで、「秋⋯をカンに、「忘れもやらぬ⋯⋯を低く、
「さび鮎の味は、たっぷり唄って後弾に移るが、
唄の終りから送りにかけて、鮎が川で泳いでいるさまを糸で表現する。
即ちこの小唄は、英十三作詞の『別世界』と同様、風鈴と、虫と。鮎とを器楽的に現わしたもので、
草紙庵曲中の異色の名作である。
【注】因みに『さび鮎』の軽妙な後弾は、喜む良勇吉著『草紙庵師の思い出の付録として、添付の喜む良勇玄 (のち鶴岡聖城)の『小唄楽譜に美事に表現されて今日に残っている。

さび鮎 本調子 薗千桂詞 吉田草紙庵曲

灯を消して
虫に聞き入る気落ちかな
心うつろに昨日 今日
寝られぬ 秋の 幾夜さに
忘れもやらぬ さび鮎の 味。
(新暦仲秋九月·昭和十一年作)

3,網島心中(鐘がなる) 唄・春日とよ栄芝 浦上紀庵・詞 吉田草紙庵・曲

解釈と鑑賞

『心中天網島』近松門左衛門の一代の名作浄瑠璃で『河庄』『紙屋内』『心中』の三段に分かれている。
のち歌舞伎の上方狂言となったが、この小唄は『下の巻』の『心中場』を唄ったものである。
大坂天満の、紙屋の主人、治兵衛は妻子ある身で、曽根崎新地の遊女、紀伊国屋の小春に現をぬかし、
貞節な女房、おさんと兄、孫右衛門の、諫めも耳に入らないので、舅の、五左衛門は、
娘おさんを生家へ連れ帰る。万策つきた 治兵衛は、
倅、勘太郎を、丁稚三五郎に背負わせて、母のもとに送らせ、
自らは、小春を紀伊国屋から連れ出し、
十月十五日の、月冴ゆる中を、網島の北にある大長寺(浄土宗の寺)を、往生場と定め、
手に手をとって死にゆく。 二人が大長寺の、外を流れる小川の、流れみなぎる、樋の上を、
最後所と着いた時は、すでに山の端白く、仄々と、大長寺の、十六日の、晨鐘の鳴る頃であった。

[解釈と鑑賞]歌舞伎の『心中天網島』は近松門左衛門死後二百年に当る大正十一年、
初代中村鴈治郎と、三代目中村雀右衛門によって、原作のまま上演されたというが、
筆者の知る所では、昭和二十八年八月の歌舞伎座で、二世、中村鴈治郎の、治兵衛、
扇雀の、小春で(河庄・炬燵・大和屋)を上演
大長寺への心中を、浄瑠璃『走り書き名残の橋尽し』で出し、
昭和六十一年三月の青山劇場では中村扇雀の治兵衛、片岡秀太郎の小春で通し三幕五場、
下の巻『大和屋、道行、名残の橋づくし、網島大長寺』の三場が上演されたが、
何れも『心中場』は上演されなかった。

従っ、浦上紀庵作詞『網島心中』は、歌舞伎の舞台を唄ったものではなく、
近松の『心中天網島』の本文に拠ったと筆者は考える。
『樋』とは、水門で堰きとめた水の口に、戸を設け、それを開閉して、
水を出入させるもので、二人は樋の上を山となぞらぇ、脇差を取上げて、
小春は投島田を、治兵衛は髷をはらりと切って世俗を断ち、
若紫色の縮緬の扱帯(しごきおび)を、二重廻りに、
樋の俎木(まないた)にしっかりとくくりつけて、死に場を作る。

そして大長寺の鐘を合図に、治兵衛は先づ『南無阿弥陀仏』と、愛しい小春の咽喉を脇差で突き、
羽織を着せかけて死骸を繕ったあと、小春の扱帯(しごきおび)を手繰りよせて
首に罠を引きかけ、樋の上 から『一蓮托生・南無阿弥陀仏』と足を踏み外すのであった。

歌詞を受けとった草紙庵は、先づ前弾に一中節の「小町少将道行』の手をとりいれて、
小春、治兵衛が死出 の旅につく感じで、テンポも遅く、静かに、弾いて、
鐘がなる⋯⋯と出る。無常の鐘に縮緬のから以下は。近松の本の通り美しく唄い、
南無網島⋯⋯は、清元『隅田川』の六下り梅若の件をとり、
露と消えゆく⋯からは、せき込んだ唄い方とする。
これが草紙庵の構想であった。
この小唄は、昭和十八年、五月、上野の料亭、塩原でお開きをした。
その時の列席者は、浦上紀庵、森垣二郎、草紙庵のほか二三の方々で、
唄は、初代飯島ひろ子、糸は蓼胡以佐であったが、あたかも、山本司令長官戦死の直後であったので、
ひっそりと行われた。浦上の作詞は、中々の名文で、開曲の糸を勤めた蓼胡伊佐は、
この時の、細かな注文を、のちに詳しく語っている。
この唄を勤めた、飯島ひろ子は『露と消えゆく四つの袖⋯⋯の所は、
あの世で一緒になれる事を願いながらも、独り残される、おさんに立てぬく、心の道から
別々に死んでゆくという気持に』と、草紙庵からくどく言われたと語っている。(初代飯島ひろ子談)
これが、草紙庵曲最後の開封であった。今となって判った事であるが、
この心中物を唄った曲が、くしくも日本帝国を弔う曲でもあったのである。

3,小唄 網島心中(鐘がなる) 唄・春日とよ栄芝 浦上紀庵・詞 吉田草紙庵・曲

鐘が鳴る
樋の上の 紅葉 はらはらと
降るは涙か いささ川 水も音なく
誘い来る 無常の 鐘に
縮緬の 若紫の 色も香も
南無網島の 暁に
霜と消えゆく
四つの袖
(陰暦初冬十月・昭和十八年五月開)

 

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