小唄徒然草51 春日とよ家元作曲集 1

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小唄徒然草51

今回から、春日とよ家元の作曲した小唄96曲を
特集いたします。春日派としては、財産の曲です。

そして、出来る限り、解説資料が見つかったものは、
すべてにナレーションををつけたいと思います。

1、春日三番叟 2、ほしの 3、明けてめでたき の3曲からお届けいたします。

ここで紹介している曲の譜面(三味線 文化譜)は、一般財団法人 春日会
〒110-0002
東京都台東区上野桜木1-5-22
TEL:03-3821-2365
FAX:03-3821-4579 でお買い求めになれます。http://kasugakai.jp/

初代 春日とよの春日三番叟
昭和二十年の正月を鵠沼の畑の中の一軒家で迎えた春日とよは、
三月十一日の東京大空襲で東京方面の空が 真赤に映っているのを見て、
いよいよ軽井沢へ行くより仕方がないと、三月十五日リヤカーに僅かな荷物をのせ、
忠実な家政婦と幾人かの弟子に送られて上野駅から死物狂いで汽車に乗って軽井沢に着き、
やっと沓掛の 春日荘にたどりついた。

三月、耐えられぬ寒さの中を、女中も郷里に帰ったので、ただ 一人で、山荘での生活が始まった。
近くの別荘に、避難している奥さん方に交じって、生れて始めて鍬や鍬を持って、
別荘の下で、南瓜・馬鈴薯・小豆・葱・そばなどを栽培した。
水道の水がなかなか出ない時は、坂の下の湧き水を汲み、炭が足りないので何でもかんでも薪にするので、家中真黒になり、
風呂は近くの星野温泉に歩いて入りにいった。
三味線はもっての外で、到頭戦争が終るまで弾けなかった。
三味線の皮が破れたのでセロテープを、破れた所に貼って終戦を迎えた。

八月十五日の終戦を春日荘で迎えたとよは、すぐに東京に帰らず十月まで春日荘で暮した。
ちょうどその頃 「成子川育子(のち新橋六栄)が東京の家が焼けて、一家三人が信濃追分の叔母の家に疎開し、父は経師屋で星野温泉に出入りしていたが、当時軽井沢の万平ホテルに泊っていた進駐軍の家族から、日本の舞踊を見たいとい う注文があって、星野温泉の主人が当時十歳くらいの育子に依頼があった。
育子は五歳の時から、伊志井美代 (新派の伊志井寛の姉)に、日本舞踊を習っていたので、
疎開してあった二・三枚の衣裳を着て踊りをみせたが、忽ち タネ切れになった。
これを聞いたとよ家元が、私が三味線をひいてあげると気軽に踊りの地を弾いたので大評判となり、
その結果三人が春日荘に移って、とよの面倒をみることになった。

そのうち、春日とよ五(高松市に生れ昭和十六年春日派の師範となる。「財団法人・春日会』六世会長)が、
内 弟子として見えて、春日荘も賑やかになったが、育子の母と、とよ五は大きなリュックを背負って小諸まで買出しに出かけた。
「栄養失調のおばさん」であったとよは、だんだんに栄養がよくなるに従って、艶のなかったが、ぎらぎらと光るようになり、
そのうち髪が真白になって、文字通り銀髪となった。
やがてとよは、育子を連れて(両親は春日荘に残して)東京の桜木町の家に帰った。
とよの帰るのを待っていたように、大阪の焼けた名取達から。是非逢いたいという連絡があって、
汽車の窓から飛びこむという、混雑の中を 京都まで出かけた。その時、先斗町の筆香から、稽古を頼まれ。
毎月お稽古に行くようになったのが動機で、先斗町 と祇園の、女紅場(正式には東山女子技芸学校)の師匠を委嘱されることとなった。
桜木町には次第に弟子が集まり東奔西走、忙しい稽古の毎日が始まったのであった。
こうして戦後の混乱が収まった二十五年四月式唄『春日二番叟』を作りあげた。

1、春日三番叟 本調子 唄・春日とよ 平山蘆江詞 初代春日とよ曲

[解釈と鑑賞]  この小唄は、春日とよの古希(教え年七十歳)を祝った、平山蘆江の祝儀曲で、
昭和二十五年、四月、第九十回「小唄志乃ぶ会』を、新橋演舞場で催し、当日何挺何枚かで演奏され、
尾上菊之丞の振付で、新橋のまり千代と小国の。小唄振りであった。

春日の式唄にはすでに「春日野」があり、今回も幾つかの式唄の作詞が作られたが、
とよが「ほかへはやぬえ……の歌詞が大変気にいって之にしたいという(春日とよ福美師談)
とよが、今は亡き吉田草紙庵の「草紙庵三番叟」をを思い浮かべてこれを作曲したと筆者は想像する。

とよの作曲は、長唄の「廓三番叟』の手を参考とし、ヨーッという掛声をいれて
おうさえ、おうさえ..と 高く出て、三番叟の目出度い踊りから、「十度を七つ..から。鶴の舞となる。
ここからガラリと変って、男女 二人の賑やかな連れ舞の(小唄散らしの盃にとなり、
うけておさえて口紅は、わ、優婉なクドキとな り、「恥づかしながら.から、再び一人の三番叟となり、
ほかへはやられえ.という三番叟の、定り文句を 女言葉で結んで納める。
いかにも女流の三番叟にふさわしい、色気を加えた、優にやさしい、佳曲となっている。

なを、この日とよの前作、「梅川」をまり千代、染福の二人で「日本橋」を赤坂の梅乃が踊って
まさに、春日の威容を示した、一日であった。
そして、これを、きっかけに、とよの新作小唄が次々と発表されるのであった、

小唄 春日三番叟・音源

おうさえ おうさえ 悦びありや わが悦びは
春の日を 、春日と読んだ、とよの秋
十度(とたび)を七つ 繰り返す
袖にかざせば 鶴の舞
小唄散らしの 盃に
とうとう たらりと、酌む酒を
うけて おさえて 口紅は
残した ままの 思いざし
恥づかし ながら、
ほかへはやらぬえ。
(新暦晚春四月・昭和二十五年四月作)

2、ほしの《本調子》 唄・春日とよ福美  平山蘆江・詞  春日とよ曲

解釈と鑑賞

[解釈と鑑賞] この小唄の星野温泉は、中軽井沢(昔の沓掛)にある。温泉旅館である。
「星野の納涼小唄会」の きっかけは、昭和二十年八月の終戦後、星野で進駐軍家族の
慰問のために、お抹茶の、お手前をみせたり、家族の希望によって、日舞を見せるため
星野さんの頼みによって、当時十歳位の成子川育子が踊って見せていることを聞いたとよ家元が、
無料で踊りの地を弾いて上げたので、忽ち進駐軍の皆さんの評判となり、毎月踊ってほしいと頼まれたのが、
始まりで、その後、とよの発案で、疎開していた別荘の方々の慰問の会を始めた所、
大好評 で毎年やることになってしまったのであった。
始めは、とよと、春日とよ五、長野の春日とよ花、などの少さな集りで、
育子も参加して踊ったが、毎年東京周辺の弟子の参加が多くなり、
その下浚いの時は、家元自慢のシチューを差上げることが恒例となり、育子の母は忙しかった。
この小唄「星野」は、昭和二十六年、平山蘆江に来て戴いて作詞してもらい、とよが作曲したもので、
開曲は 八月の納涼小唄会で、小唄振りは藤間政弥の振付、立方は花柳右近で、二回繰返して演奏された。
(春日とよ福美談)

――さて、
「星野』の歌詞は追分の「分かされ』から始まるが、
現在の軽井沢町は、昔は浅間の煙をあおぐ軽井沢(旧軽井沢)と
沓掛(中軽井沢)と選ぶ!
信濃追分)の三つを合わせて、浅間三宿と呼ばれた。追分の分かされは、中山道と、北国街道の別れ道で、
この三角地帯には、大きな常夜燈を中心にして、その後に横70センチ高さ30センチ程の
『道しるべ石」があり、正面に「さらしなは右、みよしのは左にて月と花との里』と彫られ、
他の三面は、それぞれの里程が彫られている。
小唄の歌詞の如く、右に行けば千曲川を上って、月と仏の善光寺へ、左すれば、水曽路を通って、
京から花の吉野へゆく道となるのである。
小唄はここから、浅間の煙を見ながら戻って、中軽井沢の湯川を辿って、
星野温泉の「納涼小唄会』に集う人々を唄った爽快な小唄である。
とよの作曲は前びきなしで、右は更科から、追分や⋯と。信濃追分節で始まり、
合いの手は、馬の足音と鈴の音をとり、
雪も浅間⋯⋯を低く。名残なく⋯⋯を高く、浅間が煙の中に、霞んでみえる中を、湯川に沿って
木の間を森林浴し、アレ、あの一声⋯を、ゆっくりと いいえ、 鶯嘘々々⋯と最高潮とする。

時は夏の終り なので時鳥や鶯でなく、色々の小鳥の囀りを 聞き乍ら、
小鳥の様に気も軽く、星野の宿に笑顔揃えて⋯を高く唄って終る。

全曲、、低い調子で唄うのは、暑中涼やかな軽井沢を聞かせるためであろう。
この小唄が発表されると、全国の弟子・孫弟子も参加するようになり、
更に時世がよくなると、軽井沢に見える皆さんのくつろぎの為に続けられ、
納涼小唄会は星野温泉の名物になると共に、春日の年中行事の一となった

筆者は,昭和三十五年八月二十八日(日)に星野温泉に一泊して『吉例第十四回春日小唄会』
(主催・星野温泉文化部。補導・家元春日とよ)を温泉内のコンサートホールで拝聴した。
午後四時開演で、第一部三十一番、第二部二十五番のあと、当年の新曲に移り、
若手六人の「今年しゃ子の年」、続いて、とよ稲、とよ福園、 とよ津満、とよ艶、とよ福美、とよ力の
「物語三章』、とよ喜・とよ晴の「明治は遠く』に続いて、数え八十歳の家元が、とよ栄の糸で、
『薄氷』を唄った。このあと成子川育子らの小唄振りと、名取全員の「春日三番叟」でお開きとなった。

2、ほしの《本調子》 唄・春日とよ福美  平山蘆江詞  初代春日とよ曲

《本調子》右は、更科、左は吉野、
月と花との追分や
《二上り》雪も浅間に名残なく
雲か煙が、煙か雲か、木の間隠れの、せせらぎは
氷の様な水なれど、湯川と呼ぶは、珍らしい
《三下り》アレ、あの一声は、時鳥、いいえ鶯、 嘘、
嘘嘘 小鳥の様に 気も軽井沢、星野の宿に
笑顔揃えて。
(新歴初春八月・昭和二十六年八月作)

3、明けて目出度き 本調子 唄・春日とよ 豊泉益三・詞 初代春日とよ・曲

眠けてめでたき まゆだまに、
宝尽くしの数々を 結ぶ縁の神々へ
二人揃って初詣。
(新暦晚冬一月·昭和七年一月開曲)

解釈と鑑賞

この小唄は、、前作の「除夜の鐘』唄・山田五十鈴の好評に
気をよくした、三越の大番頭、豊泉益三が、
つづいて、春日とよに、作曲を依頼した、
昭和七年、辛(かのと)申(さる)年の
歳旦(さいたん)小唄である。
昨年の十一月の末、晴れて夫婦となった二人が、
揃って初詣でする所を唄ったもので、
とよの作曲は、賑やかな前弾き
から、明けて目出度きと出て
宝づくし⋯をカンとして、
浮ききするような女性
(これは芸者と考えてもよい)
の心情を明るく唄ている。とよの始めての歳日小唄で、
これは昭和七年と限らず、いつのの正月に唄ってもよい
軽妙な小唄である

眠けてめでたき まゆだまに、
宝尽くしの数々を 結ぶ縁の神々へ
二人揃って初詣。
(新暦晚冬一月·昭和七年一月開曲)

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