小唄徒然草 年末号 年末の小唄と端唄                             1、小唄 年の瀬や   2、端唄 笹や節   3、小唄 野暮な屋敷

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小唄徒然草 年末号 年末の小唄と端唄

小唄 年の瀬や(大高源吾)  本調子    四世 歌沢寅右衛門曲

年の瀬や 年の瀬や 水の流れと人の身は
留めて、止まらぬ、もののふが(色の道)
浮世の 義理の 捨てどころ
頭巾 羽織を 脱ぎ捨てて
肌さえ寒く 竹売りの
明日待たるる宝船。
「季」 陰暦晚冬、十二月十三日

[名題]『新台いろは書初』時代物。安政三年(一八五六年)五月、森田座、三世瀬川如皐作。守田勘弥の松倉緑翁、

大谷友右衛門の其角、市川男女蔵の文吾(源吾)。のち、明治十五年、正月『誠忠義臣 元禄歌舞伎』(大阪 角座、勝 諺蔵 加筆)では、
松倉緑翁を松浦鎮信として書かれた。

三世中村歌六、同吉右衛門の当り芸『松浦の太鼓』が之である。 明治、廿三年。五月歌舞伎座

『実録忠臣蔵』(桜痴居士作)では、土屋主税として書かれ、中村梅玉が主税を演じた。
初代中村鴈治郎の当り芸『土屋主税』は、これらの筋を混じて、改作したもので緑団子作である。

[梗概]元禄十五年極月十四日の夜更け、本所松坂町の吉良邸の隣の松浦鎮信邸では、
お気に入りの向島の 宝井其角を招いて、雪を肴に俳諧の席が催されていたが、たまたま其角から
『昨夜、同じ俳諧の道で知り合った、赤穂浪士、大高源吾の零落した笹売り姿を、両国橋の上で見かけ、
余りのみじめさに、殿より拝領の羽織をめぐんでやった。』との話をきかされた鎮信は、
常々赤穂義士を、不甲斐なく思っていたので、すっかり 苦りきり、其角の世話で当家に奉公に上っている源吾の妹おぬいを、早々に引取れと言い出したが、
其角が その時、「年の瀬や水の流れと人の身は」と発句で問いかけると、源吾がすかさず、 明日待たるるその宝船 とつけたと聞き、侯は丁と膝をうって感心した。
途端に、隣家の吉良邸より聞える陣太鼓の音は、その音にじっと耳を傾け、これぞ赤穂浪士の討入りと思わず叫ぶのである。

小唄『年の瀬』は、までは、講談そのままの両国橋における大高源吾と、其角との出会を唄ったもで、実録によれば、
源吾は時に三十一才、俳号は子葉と称して、水間沾徳に学び、其角とも交りがふかかった
また、茶の宗匠、四方庵宗偏の門に入り、吉良家の茶会が十四日にあることを探知した功労者で、文あり、武ありの人であった。

小唄、年の瀬や〜、身は』までは、両国橋における其角の発句のよびかけで、『止めてとまらぬでは、源吾が故郷の母に遺言の手紙を書き送り、
この世のすべての義理を捨て、主君のために殉ぜんとする。止めて止まらぬ武士の意地を唄ったもので、
『頭巾 羽織を〜竹売りの』までは、源吾が日頃、句会でで其角に逢う時の羽織、投げ頭巾姿の礼儀正しさに引換え、
今宵は一重布子に股引草鞋らしい竹売姿で、寒風のすさむ両国橋を渡る姿を唄ったもの。
江戸時代は十二月十四日が、年末の煤払いとさだまっていたので、十三日の夕暮は、近在の百姓達が煤払いの竹を担いで売りに来たもので、
源吾はこの夕、明日に迫った吉良邸の茶会の模様を探索するために、竹売りに身をやつして、両国橋にかかったのである。
『明日待たるる宝船』は、心中、期する所を、其角に答えた附句であるが、この小唄は、
曲が非常によくついており、年の暮のわびしさ、慌しさと、来るべき年への望みなどをよく表現しているので、
年の暮に聞くと、胸のしめつけられるような感銘を覚える小唄である。
この小唄は明治期の歌沢節から採ったもので、色々の唄い方がある

【宝井其角】=(榎本其角)1661年~1707年)俳人 江戸に生まれ 14歳で芭蕉の門にはいり、門下として、最も古参で
実力も抜群であり、芭蕉をして「門人に其角、嵐雪あり」と言わしめた。性豪放で花柳界の趣味を好み、
芭蕉の閑寂さと正反対の派手な句づくりぶりであった

小唄の歌詞のとめてとまらぬ「武士」を「色の道」とした唄い方もある。我が春日派の唄い方は後者である

小唄 年の瀬や 唄・春日とよ栄芝

小唄徒然草 年末号 年末の小唄と端唄                             1、小唄 年の瀬や   2、端唄 笹や節   3、小唄 野暮な屋敷
小唄徒然草 年末号 年末の小唄と端唄 小唄 年の瀬や(大高源吾)  本調子    四世 歌沢寅右衛門曲 年の瀬や 年の瀬や 水の流れと人の身は 留めて、止まらぬ、もののふが(色の道) 浮世の 義理の 捨てどころ 頭巾 羽織を 脱ぎ捨...

年の瀬や 年の瀬や
水の流れと 人の身は
留めてとまらぬ 色の道
浮世の義理の 捨てどころ
頭巾羽織も ぬぎすてて
肌さえ寒き 竹売りの
あした待たるる 宝船

端唄では「笹や節」で唄われておりますが。
討ち入り前夜の人間模様として唄っています。

端唄「笹や節」 唄・春日とよ栄芝
https://shibasyuu.com/1538/

♪ 笹や笹々 笹や笹
笹はいらぬか煤竹を
大高源吾は橋の上
明日待たるる宝船

♪ 饅頭傘に赤合羽
降り積む雪もいとわずに
赤垣源蔵は千鳥足
酒に紛らす暇乞い

♪ 胸に血を吐く南部坂
忠義に熱き大石も
心を鬼の暇乞い
寺坂続けと雪の中

小唄 野暮な屋敷 唄・春日とよ

野暮な屋敷 (小山田 庄衛門)   本調子 替手三下り  明治期の作(作者不詳)

野暮な屋敷の 大小 捨てて
腰も 身軽な 佗び住居
よいよい よいよい よいやさ。
[季」陰暦晚冬十二月十四日

[名題」『四十七刻忠箭計』時代物。
明治四年(一八七一)十月守田座、河竹黙阿弥作。

赤穂義士の討入の日の、明六つ(午前六時)から明七つ(午前四時)までを、十二時に書分けた趣向で、
『十二時の忠臣蔵』と呼ばれて好評を博した。

特に、南部坂の、大星(九世市川団十郎)が、後室、遥泉院(八世岩井半四郎)との訣別、
小山田庄衛門(市川左団次)の変心の件が最も好評であった。
お雪は、河原崎国太郎。

「梗概]塩谷浪士の一人、小山田庄左衛門は、殿在世のみぎり、
御側勤め(おそばづとめ)のため、殊に忠義の心が厚かったが、人一倍酒好きのため大星から強い注意をうけ、その身を固く守りつづけていた所、
討入の当日、雪風の麹町” 堀端で、もと塩谷の家臣、杉浦兵左衛門の娘お雪が、貧苦に迫って身投げするのを助けたのが縁で、
飯田豪に伴われ、余りの寒さに癪を起し、薬にと、一杯飲んだのが因果、遂に二杯三杯と茶碗酒を重ねる間に、、前後を忘れてお雪と枕を交わし、
眼を覚ましたときは、すでに討入の時刻の、九つ(午後11時 あわてて赤合羽をひっかけ雪の中を牛ヶ淵まで駈け出すが、すでに討入の時刻に遅参した以上、
申訳に切腹しようとするのを、後を追うて来たお雪が一緒に殺してと迫る。
丁度その折、麹町辺寄合の辻万人、権平が酒を喰って手を叩き乍ら『野暮な屋敷の大小すてて』の都々逸をうたい乍ら過ぎるのを聞き、
『ことで命を捨てた所が、徒党に洩れればほんの大死、大星殿から預った金の残りも百四五十両、是を元手にしたならば、
楽に浮世が暮せれよぅ。』と、大小を下緒で結んで前の堀へ打込み、お雪を引よせて『おい、かん酒』と、折から通りかかった燗酒屋の茶碗酒をあおる。

「小唄解説]小唄は、芝居の辻番人の歌う都々逸を小唄にしたもので、この芝居からこの小唄が市中に、流行したといわれる。
江戸時代屋敷者は常に大小両刀を差していたが、之を捨てるとは町人になることでことで、事毎に、武士にいためつけられていた町人が、
武士の格好を『野暮』ったいと言い、『腰も身軽な町家住い』を『好いよいと自賛するこの唄は、町人の武士階級への聊かなレジスタンスであると見られる。
もしこの唄が、江戸時代でなく、明治四年にこの芝居のため黙阿弥が作って入れたと考えると、
明治維新になって、武士がすべて刀を捨て、チョン髷をを切って平民となり、平民にも苗字が許される、この御代を好いよいと讃える気持が、
この唄の裏にあると見てよいと思う。

野暮な屋敷の 大小棄てて
腰も身軽な町住まい
よいよい よいよい よいやさ

 

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