小唄徒然草58 春日とよ家元作曲集 8 とよ家元の昭和初年の習作小唄               1,桔梗紫 2、おしるしに 3、美しく(しゃぼん玉)4、引きとめて

昭和十一年の春日とよ

春日とよは、昭和十一年の夏、糖尿病にかかり、医者から軽井沢へでもいって養生したらと言われて、始めて軽井沢にゆき、一晩 星野温泉に泊り、旅館の世話で、別荘を一軒借りて、一夏をそこで過ごした。それ以後、すっかり軽井沢が好きになり、星野温泉の 星野社長に頼んで、温泉の右の奥に瀟洒な別荘を作り、『春日山荘』と名づけて、毎年夏になるとここに移って静養するようになった。当時とよは過去一年間の苦労が実って、全国に名取も大勢出して安定し、いよいよ、小唄一筋に精進することができた時代であった。

昭和十一年、J0AKが『新作小唄の歌詞』を一般から懸賞募集した。こうしたことは小唄界始まって以来のことで、
新作小唄の基礎はこの時に固まった、と称してよい。そしてJ0AKの当選第二席の『桔梗むらさき』と第五席の『お蝶夫人』の二篇の作曲が、春日とよに依頼された。何れも新作小唄にふさわしい新鮮 な歌詞で、とよは苦心惨憺して作曲をし上げ、翌年二月にJ0AKから放送された。開曲の唄は、市丸(春日とよ丸)、 糸は春日とよ力であった。

春日とよの桔梗むらさき  唄・春日とよ  小池波男詞・   春日とよ曲 

二上り 桔梗むらさき、薄情(うすなさけ)
ダリアは赤い、仇情(あだなさけ)秋は託言(かごと)も睦言(むつごと)も
何れ、はかない、夢ばかり 覚めて寂しき
三下り 暁(あかつき)の尾花を 渡る 風の色(いろ)。
(新暦晚秋十月・昭和十二年二月開曲)

[解釈と鑑賞]この小唄の作詞者【小池波男】の住所は杉並区馬橋4-458。この小唄は珍しくも男歌で、しかも、その主人公を現代青年とし、全編新作小唄らしい新鮮な題材と言葉とで表現している。
「桔梗の紫、さめし、思いかな」 虚子 という句から、
青年は桔梗の紫のように薄情であった一人の女性を思い、またダリア(花言葉は壮麗)の赤のように情熱的であった一人の女性を想い出している。
その女性との託言(恨み言)も睦言(睦まじい語り合い)も、今は夢となって、
暁の晩秋の高原に立つ青年の心境を、尾花(すすき)を渡る風の色で表現している。
誠に心憎いばかりの作詞で、これに洋楽の伴奏をつけて見たいほど『歌謡曲』との接近が見られる。
ただ、覚めて寂しき⋯⋯の七字が、古来の小唄の常套用語になっているのが惜しい。

とよの作曲は、二上りで、チントンシャーン〜、桔梗紫、薄情、ダリアは赤い仇情⋯⋯を糸と逆にしっとりと出て、
秋は⋯⋯を、高く、何れはかない⋯⋯を、低音で、尾花を渡る風の色⋯⋯に、この曲の全生命を打ちこむ。
この風の色は、軽井沢の浅間高原をわたる秋風とみてよいであろう。

とよに、この二曲が依頼されたのは、当時、JOAKの演芸課長兼音楽課長であった、
久保田万太郎の推挽によるものと思うが、
まだ『支那事変』が始まらぬ頃で、新鮮なこの曲は歌謡曲の得意な市丸によって放送されて好評を博したが、
戦後この新鮮さが買われて再び流行した。

お蝶夫人  本調子  唄 春日とよ  作詞 西村黛子   作曲 春日とよ

主はアメリカ其後は
ふっと便りも長崎や
港の秋の宵々に
むせび泣くなる
片時雨
大和女子の
意地からに
きっと帰るの一言を
わしや忘れずに
いつまでもいつまでも
エエ待つぞえ

春日とよの俳句に因む小唄三題

おしるしに(又は二百十日)  二上り   水声詞   春日とよ曲

おしるしに(又は二百十日)  二上り   水声詞   春日とよ曲 

おしるしに
雨来(あめき)しのみの 厄日かな
暑いと云うのも束の間に
訪れ 早き 秋の夜を
通いつめたる 稲妻に
稲田は いつか 穂をはらむ
二百十日はよい日和。
(新暦仲秋九月・昭和十二年作と推定)

しゃぼん玉 三下り   水声詞   春日とよ曲

美しく はかなきものよ しゃぼん玉
吹く麦藁(ぶぎわら)の 口先に
乗って離れて ふわ ふわと
浮かれ坊主の 上の空
空吹く風にぶつかるや
五彩(ごさい)の虹と散る雫(しずく)
はかなきものよ しゃばん玉。
(新暦晩春四 月・昭和十二年作と推定)

引きとめて 本調子   水声詞   春日とよ曲

引きとめて 交わす話も 短夜に
四声五声(よこえいつこえ)ほととぎす
早や明け近く 水の音。
(新暦初夏五月・ 昭和十三年作と推定)

[解釈と鑑賞] 以上三曲は、とよの軽井沢の俳句の先生である【水声(すいせい)】の作詞である。
とよの俳句は、軽井沢にゆくようになって始まり、俳画も大変上手になった。
先づ冒頭の「二百十日』の 「おしるしに、雨来しのみの厄日かな」は。 よの俳句である。
稲田を女性、稲妻を男性にたとえ、稲妻が通いつめたため、稲田が穂をはらむだという言廻し(いいまわし)で、
心配されていた今年の厄日(二百十日)は、雨が一寸降っただけでおさまり、今年 農家の安堵と喜びを唄ったもので、
これは女唄として唄ってよい。とよの作曲は。二上りの軽妙な曲で

穂をはらむ⋯⋯を、美しく唄い、、二百十日は⋯⋯の、次に軽く”ン”をいれて、
よい日和⋯⋯をたっぷりと 唄って、安堵と喜びとを表わしている。

次の『しゃぽん玉』の
「美しく果敢なきものよしゃぼん玉」もとよの俳句である。
しゃぼん玉の夢のようなはかなさは、子供の頃の心を美しく想い出させる。
とよは、この年になって戯れにしゃぼん玉を吹いてみた。そして美しくはかないしゃぽん玉は、
自分の人生を暗示するように思ってこの旬が生れた。

とよの作曲は、チャーンへ美しくはかなきものよしゃばん玉⋯⋯をゆっくりと唄い、
吹く⋯⋯から早間になり、再び終りのはかなきものよ⋯⋯に戻る。
とよの、美しい昭和小唄の女唄である。

最後の『引きとめて』は、いとしい人をひきとめて尽きぬ話をしているうちに、
夏の短夜は早や明け近くになって、待たぬほととぎすと、水の音が聞こえてくる所を唄ったもので、
小林栄は『風雅な排境に明ける短夜と解している。
とよの作曲は、明治小唄を思わせるような情緒たっぷりなものであった。

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