小唄徒然草59 春日とよ家元作曲集 9 昭和十三年と十四~五年の春日とよ家元           1、おもかげ 2.佃(月 雪 花) 3、梅雨の晴れ間 4、日本橋(上) 5、日本橋(下)年

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小唄徒然草59 春日とよ家元作曲集 9              昭和十三年と十四~五年年の春日とよ家元

1、おもかげ
2.佃(月 雪 花)
3、梅雨の晴れ間
4、日本橋(上)
5、日本橋(下)

春日とよは、日中戦争が始まると、作曲活動を休んで、じっと草紙庵や堀小重その他男性の人々の動きを眺めていた。
おそらく戦局次第によっては小唄などやれなくなるかもしれぬ、と考えていたからであろう。
従って この間の新作小唄は僅かに前述の『引きとめて』と、春日とよ栄津の死を悼んだ『忘られぬその面影』と、
新派小唄『日本橋』のみであった。

おもかげ(忘られぬその面影) 本調子   山田蔦舎詞   春日とよ曲

忘られぬ その面影も その声も
糸の三筋に 一筋の 命をかけた 二世の縁
この夜はかなく咲く 花の
散るが 哀れか 残るが 憂いか
澄めば 真如の あの月さえも
涙ふくんだ おぼろ影。
(季な し・昭和十三年作)

[解釈と鑑賞]この小唄は山田蔦舎が最愛の妻、春日とよ栄津の死を悼んだ哀悼の小唄である。
山田蔦舎は母校の、慶応義塾大学の助教授で、最初の結婚に失敗したのち、
春日とよ栄の弟子のとよ栄津と熱烈な恋愛をして、
『慶応大学助教授と小唄師匠』と新聞に書かれたりした。
昭和十三年(三十五歳)妻のとよ栄津が結核のため歿したとき、
蔦舎が、妻の在りし日の面影を偲んで作詞した小唄が、この、
忘られぬその面影⋯⋯であった、その切々たる思いが、大師匠の春日とよの情感をゆさぶり、
見事な小唄に作曲された。
そしてとよ栄津の百ヶ日の法要の際、春日とよ津満の唄、二世春日とよ福の糸に よって開曲披露された。
唄うより語るという静かな曲で、『真如の月』とは仏語で、
明月が無差別平等の光をそそぐ事を指す。これが蔦舎の最初の小唄作詞であった。

 

【山田蔦舎(明治三十六-昭和二十一)】
本名正夫。明治三十六年六月三日東京滝の川区上中里に生れた。
慶応大学卒業後現在の小石川高校の英語教師を勤め、のち母校の 慶大の助教授となり
ドイツ経済学の研究をした。
幼時より文学を好み俳句や小説を書いたりしていた。
最初の結婚に失敗したのち、 春日とよ栄津と熱烈な恋愛をして結婚したが、
とよ栄津が結核の ため早逝した。
蔦舎はその後、助教授をやめ、好きな俳句や小説に専念すると共に、
春日とよに請われるままに 数篇の小唄の名作詞を提供するようになった。
戦時中、とよが、ただひとり、清新な新作小唄を作曲しつづけたのは、蔦舎の作詞あればこそであった。
その後、蔦舎は春日家元の弟子の春日とよ津満を紹介された。春日とよ津満(明治四十四-昭和五十五)は本 名山田ヒデ。
浅草松葉町に生れ育った下町っ子で、一時浅草で芸者に出たが十九歳の時結婚して家庭の人とな った。
小唄は始め、とよ栄津に就いたが、師匠の没後、春日家元に就いて唄・糸共に勝れた演奏家となった。
丁度 この頃、夫を結核で亡くしたとよ津満は、蔦舎と互いにひかれる所があって結婚した。
ところが結婚生活僅かで 蔦舎が病に倒れて入院し、
とよ津満が小唄の稽古を続けながら必死の看病の甲斐もなく、
蔦舎は二十一年六月十二日に没した。行年四十三歳

昭和十五年幻の万博小唄・佃

昭和十五年には、紀元二千六百年を記念して『日本万国博覧会』と
『第十二回オリンピック』とが東京で開催されることに定まり、
博覧会の第一会場を東京晴海埠頭と月島、第二会場が横浜と予定された。(昭和10発表)
そして万博開催を記念して一連の小唄が作られたが、冒頭の一章を紹介すると、

「鐘が鳴る鳴る 観音様に
月の七日の鐘が鳴る
晴海の岸にうちよする
女浪男浪は世界の人の
心ごころを結ぶ浪」というものであった。

また勝鬨橋の完成が急がれた。この橋は明治三十七・八年の日露戦役の大勝利を祝って
京橋区民が『勝どきの渡し』を作って東京市に寄贈したものであった。
すでに東京市は、昭和八年六月より、之を双葉可動橋とすべく工事を開始していたが、
万博の第一会場の交通路として昭和十五年までには是非とも完成しようと努力を重ね ていた。
ところが、昭和十三年になると、万博と東京オリンピックは、遂に延期と中止に決定し、
『万博小唄」は一場の幻となって消え去った。そして勝鬨橋のみが、昭和十五年六月十四日に、
シカゴ市のはね橋を模したタイドアーチ型の跳開橋(はねばし)として完成し、
名も折から、支那事変の戦勝を記念して、勝鬨橋と名づけられた。
春日とよは『万博小唄』の消え去るのを惜しんで、之を「勝鬨橋完成記念小唄』として作りかえて
小唄「佃』を作り上げた。

佃=月  本調子      作詞者不詳・   春日とよ曲

月が照る照る 十五夜お月さま
松の葉越しの 月が照る
粋な音締の 爪弾きは 好いた同志の
差向い  忍び逢う夜の もやい舟
(新暦仲秋九月・昭和十五年六月作)

佃=雪  本調子      作詞者不詳・   春日とよ曲

雪が ちら ちら ちら ちら雪が 帰す朝(あした)にちらちらと
積る 思いの 胸のうち 何時しか溶けてうっとりと
逢瀬嬉しき 今朝の雪。(新暦晩冬・同右一月)

佃=花  本調子      小林栄詞・   春日とよ曲
花が 散る散る散る 散る花が 歌仙桜の 花が散る
永代かけて変らじと 浮名辰己の吹く風に
散るも嬉しい 二軒茶屋。
(新暦晩春四月・昭和二十年代作)

[解釈と鑑賞]最初の〜月が照る照る⋯⋯は佃島あたりからかみてに上る屋根船を唄ったもので、
歌詞は明治調で平凡なものであるが、
これを春日とよが、替手を三下りとし、まえびきと送りに、佃の手を入れて派手に作曲し、
何挺何枚かで斉唱できるようにしたのは見事であった。 最初の佃を月、替手の佃を雪とすると花が歌詞がないので、
終戦後小林栄が『花』を作詞して之に加えた。

山田蔦舎と春日とよの梅雨の晴れ間

[解釈と鑑賞]この小唄は梅雨の晴れ間の下町の風物を描写したもので、青葉風、風鈴、忍、金魚売り、
飛び石と庭下駄、木戸、染浴衣と、それをうまく塩梅して新鮮な感じを出している。
作詞の山田蔦舎の春日とよへの最初の作詞で、戦中を意識してその作品から色気を抜いているが、
それでいて、新鮮な感覚に溢れる小唄とした所は見事であった。
とよは、この頃すっかり作曲意欲を回復していて、チントンシャーン、梅雨の晴れ間⋯⋯と軽く出て、
と、チチーンでその風物を唄い上げる。前作のへ濡れて見たさ ⋯⋯以来の
軽快な現代小唄とした。筆者の最も好きな小唄の一つである。

梅雨の晴れ間 本調子   山田蔦舎詞・   春日とよ曲

梅雨の 晴れ間の 青葉風
触るる 音もよき 風鈴に
忍ぶの色も 軒深く
“金魚金魚目高金魚”
それと心も飛び石に 庭下駄軽く木戸の外、
往来の人も 爽々と 染浴衣。
(新暦仲夏六月・昭和十五年作)

伊東深水・春日とよの日本橋

日本橋・上 本調子 唄・春日とよ福美   伊東深水詞・    初代春日とよ曲

笛の音も 曇り勝ちなる弥生空
暗き思いに葛木が
断ち切る絆 川水へ
流す供養の雛祭

つながる縁の西河岸は
春で朧で御縁日 御地蔵様の御利が
利いて御神酒の酔い心地  石橋の達引も
意地が命の 左褄。
(新暦仲春三月・昭和十五年作)

 

唄・日本橋下 二上り 唄・春日とよ福美   伊東深水詞・    初代春日とよ曲

淡雪の 消えて果敢なき 春の宵
飽かぬ別れも 人の世の 宿命と知れど 口惜しく
思い乱れて 狂う身も

本調子
片身の謎の人形を 抱いて寝る夜は
明け易く 泣けて涙の花時雨
離れ離れの鴛鴦が 心の闇に踏み迷う
輪廻は尽きぬ日本橋。
(新暦仲春三月)

[名題]『日本橋』古典新派。大正物。五幕。泉鏡花作。真山青果脚色。大正四年三月東京本郷座初演。
配役 は、稲葉家お孝(喜多村緑郎)、滝の家清葉(木村操。葛木晋三(伊井蓉峰(いい ようほう))、
抱妓(かかえげいぎ)お千世(花柳章太郎)であったが、初演の評判はあまり芳しくなかった。
再演は二十三年振りに昭和十三年三月の明治座で、
巌谷三一、脚色、久保田万太郎、監督、繁岡一装置、伊東深水、意匠考証。
配役はお考(喜多村)、お千世(花柳)は、初演 のままで、清葉(河合武雄)、葛木 (梅島昇)、五十嵐伝吾(小堀誠)の
ベストメンバーで上演したところ大好評を博し、以後『日本橋』は、新派 の古典演目の一として固定するようになった。

[梗概]大正の初め、日本橋檜物町に稲葉屋のお孝と、滝の家の清葉、という指折りの名妓があった。
清葉は令夫人と渾名されるくらい品がよく内気なのに引かえ、お孝は江戸っ子肌の意地が生命の女であった。
医学士、葛木晋三は姉が形見に残した雛人形に似た清葉に心をひかれ、
雛祭り(三月三日)の翌日お孝のはからいで清葉に逢い、思い切って七年越しの恋を打ち明けるが、
清葉は晋三の気持ちはよくわかるが、姉のために現在の旦那を持ち、
姉亡きあとも、一生ほかの男は持たぬと心に誓った清葉なので、晋三の恋は空しく破れるのであった。

その夜――春で朧の延命地蔵の縁日の晩で、晋三が清葉への恋情を断ち切ろうと、
暗い思いで、片身の雛人形に供えたさざえと蛤を紙に包んで
一石橋の上から川に放して、笠原巡査にとがめられる所へ、
ほろ酔のお孝(二十三歳)がこれもさざえと蛤を川に流すために通りかかって晋三をかばい、
巡査からお前の名はと聞かれて『葛木晋三同じく妻と書いて頂戴』と答える。
二人の連れ立つ後姿を、一石橋の上に立ってやるせない胸のうちを、持って生れた芸の『笛』に託すのが清葉であった。

こうして持って生れた意地から。進んで晋三に身を任せたお孝であったが、
次第に真実の恋となり、晋三も またお孝を妻に迎える決意をする。
ところがその年の冬の雪の夜、これまでお孝の情夫であった遊び人の、五十嵐伝吾が一石橋で晋三を待ちうけ
『お孝と別れてくれ』と大地に額をすりつけて頼む。晋三はこの熊のような男がお孝と戯れたのだと思うと口惜しく、
翌年の雛祭りの日、お孝を自分の研究室である大学の生理学教室に招き、姉の形見の雛人形を渡して、
暫く心の痛手の治るまで諸国行脚の旅に出ることを告げる。
晋三の去った後のお孝は、生ける屍の如く毎日を泣き明かし、終に発狂してしまうので、
清葉は、痛ましい姿をみて、細腕で稲葉家を支えるお千世のために、何くれとなく面倒を見る。

一方お孝を失った伝吾は、その怨を晴らそうと、滝の家から火事が出た騒ぎに紛れて稲葉家を襲い、
お孝を刺そうとして誤って千世を殺すが、伝吾もまた狂ったお孝に刺されてしまう。
そしてお孝は、姉の姿を求めながら 再び懐しい日本橋を通りかかった雲水姿の晋三の腕に抱かれ、
夫婦のようにしっかりと手を握って安らかに死んでゆくのであった。

[解釈と鑑賞]この新派小唄『日本橋』は、芝居の意匠考証をした伊東深水が、
当時浪曲界の大御所であった 木村友衛から、姪の踊りの会のために作詞を頼まれたもので、
『春で朧で御縁日』という喜多村の声色は、当時の若い者は、誰でも口ずさんでいたので、
之をとりあげて作詞したものである。 之を受けた春日とよの作曲は、
『日本橋』上は、『一石橋の場』で、笛の音も、曇り勝ちなる、弥生空⋯⋯は 淋しく出て清葉を唄い、
暗き思いに⋯⋯は、葛木を唄い、ここでガラリと調子を変えて明るい早間となり、 春で朧で御縁日⋯⋯を、
カンでお孝のセリフを唄い、続いてへ意地が命の左褄⋯⋯を聞かせて、
日本橋芸者 の心意気をはっきりと示し、一幅の絵のような舞台を髣髴とさせる。
『達引』とは互いの意気地を張り合うことである。『日本橋』下は、晋三に去られたお孝の苦しみ悲しみを唄ったもので、
前半は二上りでさらさらと。ゆき、本調子になってから、片身の謎の、離れ離れの鴛鴦⋯⋯をカンを多用し、
心の闇に踏み迷う⋯⋯からチラシ となり、輪廻は尽きぬ日本橋⋯⋯で、
日本橋をめぐる幾多の人々が喜びと悲しみを繰返すことを唄い上げた秀曲としている。
この作曲が出来上っていざ発表という時に。『支那事変』が拡大して、踊りの会が中止になってしまったという。
【注】春日とよの『日本橋』は、戦後の昭和二十五年『とよの古希の祝いの会』(新橋演舞場)で、
藤間万三哉(まさや) の振付で、赤坂の芸者梅乃が踊って大喝采を博した。

唄・春日とよ栄芝の日本橋・上

笛の音も 曇り勝ちなる弥生空
暗き思いに葛木が
断ち切る絆 川水へ
流す供養の雛祭

つながる縁の西河岸は
春で朧で御縁日 御地蔵様の御利が
利いて御神酒の酔い心地  石橋の達引も
意地が命の 左褄。

唄・春日とよ栄芝の日本橋・下

淡雪の 消えて果敢なき 春の宵
飽かぬ別れも 人の世の 宿命と知れど 口惜しく
思い乱れて 狂う身も

本調子
片身の謎の人形を 抱いて寝る夜は
明け易く 泣けて涙の花時雨
離れ離れの鴛鴦が 心の闇に踏み迷う
輪廻は尽きぬ日本橋。
(新暦仲春三月)

 

 

 

 

 

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  1. […] て(鶴次郎) 2、湯島境内(久しぶり) 3、滝の白糸(水芸に) 4、残菊物語 5、春琴抄 6、白鷺 7,日本橋上と下は、 先に、配信してあります 下記URLからhttps://shibasyuu.com/1455/ […]

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