小唄徒然草56 春日とよ家元作曲集 6 の配信です。
とよ家元が軽井沢から引き上げ後の作曲です。
1,冬灯(待てど来ぬ )
2,うらうらと(若草山)
3,義理のともづな
その後の春日とよ家元
昭和十九年、春日とよは七月一旦、軽井沢の山荘に疎開したが、
軽井沢は寒くなるから、一日も早く戻ってくるようにと、東京の弟子達にいわれ、
地元の人達の引きとめるのを振りきって、東京へ戻った。
それから、桜木町の自宅で稽古を始めると、
強気の連中が稽古を続け、十一月二十六日(日曜日)には、極く小さな上げ浚いの会を自宅で催した。
この日も、警戒警報がでたが、みな余り驚かず解除を待って再び会は続けられた。
それから三日後の二十九日、東京はB29の初の夜間空襲に見舞われて、田村町や室町がやられた。 とよは、その後の度々の空襲の都度、
怪しげな自宅の防空壕に退避したが、十二月一日、やもなく、さきに空襲の避難場所として買っておいた、鵠沼の畑の中の一軒家に移ったのであった。
春日とよの冬灯 冬灯(又は待てど来ぬ) 本調子 唄・春日とよ福美 島田某詞 初代春日とよ曲
待てど 来ぬ夜の 冬灯
出先で起きた 間違いか それとも
ひょんな 魔がさして もう逢えぬかと
思う身の 影さえ寒き 独りぼち。
(新暦初冬十一月・昭和十九年十一月開曲と推定)
[解釈と鑑賞]
この小唄は、春日とよと同じ町内の、上野桜木町に、新井友好氏が住んでいたが、新井氏は、、
宮家にも出入りしていた東洋医学の大家で、邦楽に趣味をもち、
特に新内は玄人はだしの腕前で、また大の小唄ファンで、とよ は勿論のこと、
とよ福・とよ晴・とよ喜とも親しく交際していた。
ある時偶然に、知人で早稲田大学。国文科の先生の【島田某】氏から、
この『冬灯』の作詞を見せられ、早速とよにお見せした所、とよが気にいって、
作曲したものである。
『冬灯』とは、寒々とした冬の灯火をいう。
小唄は、冬の夜、来ぬ人を待つ女心の不安を唄ったもので、考えは、それからそれへと、悪い方にばかり走る、冬灯人(ふゆともしびと)の、心を見守りぬ、富安風生(とみやす ふうせい)
春日とよの作曲は、待てど来ぬ、と高く出て、冬灯⋯を低くし、あとサラサラとした、小唄らしい小唄で、それともひょんな⋯の所で、とよ独得の鼻にかけてふんわりと唄う節廻しが聞かせ所である。戦局の厳しい、昭和十九年の十一月に開曲されたと推定するが、とよが折角燃え上がった、小唄の灯を、影さえ寒き独りぼち⋯でも守り抜こうという決意を、この小唄に托して述べたと考えられるのである。その頃、十六歳の跡見女学校の女学生であった新井氏の娘良子は、六歳の六月から長唄を習っていたが、後の、二十一年、父の勧めで、春日とよ晴に就いて三味線を、翌年より、春日とよ家元に就いて唄を修学し、昭和二十六年、春日とよ勇の名を戴いた。唄糸ともに勝れ、もと、春日会の常任理事として、華のある唄い手として活躍ているのは、くしき因縁と称すべきであろう。
序に書くと、とよ勇の名は、家元が日頃尊敬する新派俳優井上正夫の本名、勇一の勇の字をとって名付けたという事である。
春日とよの若草山
若草山(又はうらうらと) 二上り 唄・春日とよ福美 山田蔦舎(ちょうしゃ)詞 春日とよ曲
うらうらと
野辺の陽炎 陽に燃ゆる
若草山の若芝に 集う 鹿の子の
睦みどち
鳴く音を競う 戯れに
声を しのぶの 一節は
春日の杜に 冴ゆる松風。
(新暦晩春四月・昭和十九年作)
解釈と鑑賞」
この頃、春日とよの弟子に西村さん夫妻がいて、
奥さんは、洵の名を戴いて、国会議事堂のそばに住んでいて(昭和53年没)、同門の同志と『鹿の子会』という勉強会を作っていた。
この小唄は『鹿の子会』のために、昭和十九年に、春日とよが作って与えた祝儀曲である。
とよ家元から作詞を依頼された、山田蔦舎は、春日に因んで、奈良の若草山に集う鹿の子の文字をいれ、
声を しのぶ⋯⋯は志のぶ会』をかけて作詞した。
かつて、とよが、名披露に出した『春日野』は、春日派の裾野が、広がることを祈って、平山蘆江のスケールの大きな作詞であったが、今回の『若草山』は、
これに次ぐスケールの大きな、山田蔦舎の秀作詞である。
とよの作曲は。前弾なしで「うらうら」とゆっくり出て、鹿の子から睦どちに、鹿の鳴く音を入れ、
の合の手に鹿の鳴く音をいれ、あと会員の斉唱にふさわしい荘重で楽しい曲とした。
翌二十年一月に開曲されたと言われるが、準古典の最後を飾る一曲で、とよの新作小唄に対する、執念を示すと共に、
こうした小唄の芽が摘みとられず、埋れ火のような形で残っていたことが、戦後の 『小唄ブーム』を呼ぶ素地となったのである。
義理のともづな 本調子 唄・春日とよ福美 平山蘆江詞 初代春日とよ曲
義理のともづな ふっつりと切って
あとは貴方の舵まかせ 情は広い海の上
エゝま 何処えなと 連れて退かしゃんせ。
(季なし・昭和二十六年作と推定)
[解釈と鑑賞]
この小唄は『星野小唄』の前後に作曲されたもので、浮世の義理に悩む女性が、覚悟をきめて
義理のともづな(船の驢(とも)の方にあって、船をつなぎとめる綱)を切って、大海に乗り出した以上は、
どんなに雨風が激しかろうと、他人を頼まず、二人の力で乗りゆこうという、女心の一筋を心に秘めた、平山蘆江の作詞である。
とよの作曲も、民謡調の前弾から 義理の纜(ともづな)ふっつりと切って⋯と高く、貴方の舵まかせ⋯をしっ かりと唄い、
情は広い海の上⋯を高く、浄瑠璃調の語りとしている。
この小唄の出来た、昭和二十六年を考えると、この小唄は、占領体制の解除された、新生日本の姿を、
義理の纜ふっつりと切って⋯⋯と唄ったように筆者には、考えられるのである。
これらの、戦後に作られたとよの新曲を聴と、昭和初期の『蘆江小唄』が感じられる、戦中の昭和二十年までの、小唄の灯を消すまいと、
草紙庵と共に、必死に小唄を守り続けていたとよが、新生日本の門出に当って、昭和初期の、自由で楽しかった時代を思い起こした作品で、
とよのねらっている小唄とは、これなのだ、と筆者は胸を打たれたのである。
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