小唄徒然草55の配信です。春日とよ家元作曲集 5  とよ家元の芝居小唄 

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小唄徒然草55の配信です。春日とよ家元作曲集 5  とよ家元の芝居小唄

1,夕霧
2,お祭り佐七
3,おその です。

1,夕霧(又は編笠) 本調子 木村富子詞 春日とよ曲

夕 霧  唄・春日とよ コロムビア吹き込み (家元60歳)

夕 霧  唄・春日とよ ビクター吹き込み (家元80歳)

編笠に 包む紙衣の 文字の綾 師走の風のしみじみと
可愛い男に逢坂の 関より辛い 世のならい
“逢わずに去んではこの胸が” 済まぬ 心の置炬燵
粋が取持ち ようようと 明けりゃ女夫の 松飾り。
(陰暦晚冬十二月・昭和十七年五月開曲)

[名題と梗概]『夕霧伊左衛門・廓文章』義太夫節の上方狂言。
常磐津『其扇屋浮名恋風』通称「夕霧』。
寛政二年六月江戸市村座の『四季風流彩色扇』という四季狂言 のうち『冬』の吉田屋で用いられた。
義太夫の『廊文章』の編曲で、常磐津兼太夫を立、常磐津須磨太夫の ワキ、三味線岸沢式佐、鳥羽屋里長の出語りで、
作曲は里夕と伝えられているが、名曲として今日に残って いる。

[解釈と鑑賞】
『夕霧伊左衛門・廊文章』の小唄は、清元栄次郎の、藤屋伊左衛門が、尾羽打枯した姿で吉田屋の門口に立つ所を「冬編笠』
(うらぶれし吾身ながらも恥づかしき⋯⋯)の義太夫節の秀曲がある。
作詞の木村富子は、これ迄に『伊左衛門』『夕霧』の二曲を作詞していたが、
今回は春日とよと打合せて、常磐津の『夕霧」を とりあげて、『吉田屋奥座敷の場』の夕霧を中心に作詞することとした。
春日とよの作曲は、編笠〜しみじみと⋯⋯までは、伊左衛門の花道の出で、
上方調の前弾からへ編笠に ⋯⋯と、中音で出て、しみじみと⋯⋯を、ゆっくり唄う。
次の、可愛い男に⋯⋯以下は、『吉田屋奥座敷の場』で、主人喜左衛門、おさき夫婦の情で、奥座敷に通され、
幸い夕霧さまが見えております故、逢わせましょうと奥へ去る。
伊左衛門は、夕霧が阿波の侍と一緒と思い、腹を立て炬燵に足をいれて独りで酒を飲む所へ、
聞えてくるのが、〜可愛い男に逢坂の⋯⋯という地唄『ゆかりの月』(宝暦明和期の流行唄)の独吟である。

伊左衛門は、去年の夏、夕霧と連弾で弾いていた時の事を思い出し、
今は、心変りした女の気持に堪りかね、逢わずに帰ろうと花道の七三までゆくが、
『逢わずに去んでは この胸が』と右手を懐にいれて立止り
『すうまアぬ』ツテチンの合の手で、くるりと舞台の方へ向き直り、
『心の中にも暫し、澄むは、由縁の月の影』で舞台へ戻り、再び炬燵によりかかる所で、
可愛い男に⋯⋯では『ゆかりの月』をしっとりと聞かせ、
逢わずに去んでは⋯⋯セリフ、済まぬ心の置炬燵⋯⋯では、夕霧の出となる余韻をもたせて唄う。

次の、粋が取持⋯⋯以下は、喜左衛門夫婦の粋な恋の取持(仲立ち)によって、迎えにいった夕霧が現れて、
涙ながらのクドキに、伊左衛門の疑いも晴れて仲直りする所へ、
親御、妙順の使いで、勘当の許しと、夕霧の見請金の千両箱が届くので、二人がやっと、一足先に楽しい正月を迎える所で、
ここは一転して陽気に高上りに終ることとする。作詞作曲とも小唄振りをとりいれた、とよの歌舞伎小唄の最高作であると共に、
栄次郎の「吉田屋」の店先と対になる奥座敷の秀作となっている。

お祭佐七  本調子   小林栄詞   初代春日とよ曲

聴き比べ
唄・春日とよ家元

唄・春日とよ福美

唄・春日とよ栄芝(栄芝の会(リサイタル)三越劇場より)

町々へ 音に聞えし江戸育ち その噂さえ 橘や
掛けた 羽織の 情さえ
袖に返した 仇口(あだぐち)に
喧嘩冠りの一本気
縁の糸もぷっつりと 切れて読みなす 文の綾
辻行燈に 照らす真実。

(陰暦 晚秋九月.昭和十七年十一月開曲)

当時小林栄は歌舞伎座の楽屋によく出入していたが、ある時楽屋で市村羽左衛門と小唄の話を していた時、羽左が『お祭佐吉を粋な小唄にすると面白いぜ』とふわり言ったことがある。そこでこの小唄 が生れた訳で、その噂さえ橘や⋯⋯は羽左の佐吉を賞めたものである。 栄の作詞は芝居の佐七を活写したもので、町々へ音に聞えし江戸育ち⋯⋯は神田連雀町の鳶頭佐七が 去年の九月の祭に、八辻ヶ原(万世橋)で本郷の加賀侯の供廻りとの大喧嘩に命を限りに働いた噂が綽名となり『お祭佐七』と呼ばれたことと、羽左の佐七の評判が町々に高いことをかけたもの。 掛けた羽織のから袖に返した 仇口(あだぐち)に⋯⋯までは、神田祭の夜、芸者小糸が悪侍倉田伴平の手をのがれて長襦袢一枚で 飛び出たのを佐七が助けたその情を、今度は小糸に逢いにきた佐七にわざと愛想づかしをした(袖に返した)事を指す。喧嘩冠りの一本気縁の糸もぷっつりと⋯⋯は、小糸の深い心を知らず、ただ一筋に起請まで交した女の心変りを憤った佐七が、喧嘩冠り(手拭の冠り方をいう)に絞りの浴衣、その下に腹掛股 引という鉄火肌の鳶の拵えで、秋の両国河岸(柳原土手)で四ツ手駕に乗って通りかかる小糸を待伏せ、 『どうぞこれ見て下さんせ』と必死に差出す覚悟の書置に目もくれず、一太刀二太刀にて斬り殺す所を唄ったもの。切れて読みなす⋯⋯以下は、嫌々ながら辻行燈に照らして読む文に、始めて佐七に斬られて死の うという女の真実を知った佐七が、『小糸、か、勘弁してくれ
とその亡骸にすがる所を唄ったもので、誠に胸のすくような栄の作詞である。

春日とよは作曲に当り、この狂言はよく知っていたが念には念を入れなければと作曲を控え、十七年五月の歌舞伎座の『お祭佐七』を観て舞台の雰囲気を改めて研究の上作曲したという(小林栄書翰)。

小唄は神田祭の早間の祭囃子から〜町々へ⋯⋯と威勢よく出て、へ江戸育ちイイ⋯⋯から、その噂さえ橘や⋯⋯まで一気に唄い、次のへ掛けた羽織の情さえ⋯⋯の情を高く、一本気⋯⋯を中音とする。ここで短い合方の あとへ縁の糸もぷっつりと⋯⋯をカン、辻行燈⋯⋯を低く〜照らすウウウウ真実⋯⋯と高上りに終る。誠 にきっぷのよい江戸っ子の小唄で、羽左の小唄振りがついたらさぞ見事であったろうと推測する。

春日とよの酒屋のお園

小唄 おその 本調子  亀山静枝詞   初代春日とよ曲

何時しか 更けて 木枯しの 軒打つ音も
身に迫る 置行燈の 影淡き
蝶場格子に しょんぼりと
鬢のほつれも 涙にしめる
鴛鴦の 片羽の 片思い
“今頃は半七さん”
何処にどうして 霜の夜を
かすめて響く鉦の音は
エ、気にかかる 寒念佛

(陰暦仲冬十一月・
昭和十八年五月開曲と推定)

聴き比べ

小唄 おその 唄・春日とよ家元

唄・春日とよ福美

唄・春日とよ栄芝

何時しか 更けて 木枯しの 軒打つ音も
身に迫る 置行燈の 影淡き
蝶場格子に しょんぼりと
鬢のほつれも 涙にしめる
鴛鴦の 片羽の 片思い
“今頃は半七さん”
何処にどうして 霜の夜を
かすめて響く鉦の音は
エ、気にかかる 寒念佛

[名題と梗概]『艶姿女舞衣』
[解釈と鑑賞]この小唄は山田蔦舎の紹介で【亀山静枝】という女流作家に書いて戴いた『酒屋の場』のお園を唄ったもので、繊細な舞台装置 と女心を描いたなかなかの秀作詞である。『帳場格子』とは江戸時代に帳付する所で勘定台 の下が格子になっていた。鴛鴦の片羽の片思 い⋯⋯はお園が仲のよい鴛鴦の番いが離れて、一羽淋しく泳いでいるの意で、『寒念佛』
は寒中の夜に鉦を叩きながら寺や有縁の家を巡ることである。 とよは女流作家のこの歌詞がすっかり気にいって、御馴染の義太夫節をとりいれて歌舞伎舞踊小唄として作曲した。何時しか更けて⋯⋯と低く出て、しょんぼりと
鴛鴦の片羽の片思い⋯⋯をカンに、合の手に本調子の替手をいれてたっぷりと糸を聞かせ、、エ工気にかかる寒念佛⋯⋯を小唄調に高上がりに終る。
開曲の時は、尾上菊の小唄振りで上演したが、鴛鴦の片羽の片思い⋯⋯の合の手に、胡弓をいれ情趣を盛り上げた上げた。唄い手にも糸方にも儲けさせる所の多い秀曲で、今に至るまで 盛んに流行している。

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