小唄徒然草53 春日とよ家元作曲集 3
1,桃の花
2,読み流す
3,言わぬは言うに
4,言いたいこと
5,お染+よしない+いいたいこも
1,桃の花 解釈と鑑賞
[解釈と鑑賞]
この小唄は春日とよの黒門町時代のほほえましい作品である。この小唄の歌詞は、昭和の始め 和田英作画伯が富士吉田に富士山を写生に出かけた時、寄宿する農家の一月遅れの四月三日の雛祭の夜の雰 囲気を、徒然なるままに作詞し、これを後輩の小絲源太郎に書いて送ったものであった。 小絲源太郎(明治二十―昭和五十三は上野不忍池のほとりの料理店『揚出し』の十代目として生れ、家 業をきらって名洋画家となった人で、とよが浅草芸妓の鶴助の時から小絲画伯の母と知り合いであった事か ら、とよが小唄師匠の看板をあげると、画伯は応援のつもりで入門し、春日豊郎の名を戴いていた。 その関係から源太郎が先輩の英作の歌詞をとよに見せた所、早速節付ができて、とよがJ0AKで放送す る間際になって、知らせをうけた英作が大変びっくりした、という後日 譚がある。とよの作曲は、チント ンシャーンへ桃の花⋯⋯と明るく出て、さら/と風景画を思わせる調子で、昔ながらの田舎の雛祭の夜を 唄っている。 【和田英作(明治七-昭和三十四) 洋画家。鹿児島県に生まれ、上京して曽山幸彦、原田直次郎に学び、黒田清輝のフランス帰国と共に「天 真道場』に入門し、その推挽で東京美術学校に西洋画科ができた時に助教授となった。明治三十三年渡仏 して黒田と同じラファエル・コランの指導をうけ、帰国後同校の教授となり、白馬会、官展で活躍した。昭 和十年同校の校長となり、二十三年文化勲章を受けた。風景画を得意とし、戦後数々の富士の絵を残した。 (『明治百年美術館』)
1,春日とよの桃の花 三下り 唄・春日とよ福美 和田英作詞 初代春日とよ曲
桃の花 あかき灯影(ほかげ)や 雪洞(ぼんぼり)の
この朧夜(おぼろよ)を 女夫雛(みょうとびな)
二人して酌(く)む 白酒(しろざけ)に
酔も 出ましょ 眠くもなろう
まあ 重(おも)たげな あの眼瞼(まぶた)
(新暦晚春四月・昭和六〜七年作)
2,読み流す 増田龍雨 作詞 春日とよ作詞
[解釈と鑑賞]
この小唄は,当時浅草千束三丁目に住んでいた増田龍雨が、
隣町の馬道三丁目の浅草富士を唄 ったものである。【増田龍雨(明治七年-昭和九年)俳人。京都の花井竜五郎の次男に生れ本名藤太郎。九歳の時(或は十三歳)上京して岡田龍吟
(八世 雪中庵梅年の、高弟で雷堂と称す)の書生兼小使となり、その手ほどきで俳諧の道に入り
生涯、竜吟を義父と呼んだ。
二十四歳の時、吉原で一流の中米楼の奥帳場となり、
発雲舎龍昇(はつうんしゃりゅうしょう)と号して句作に精進し、
人事句では、他の追随を許さなかった。義父、龍吟の歿後は、九世雪中庵雀志の門に入り
雷堂龍雨と称した。偶々。吉原の内芸者の小蔦(増田やす)と熱い仲となり、
沢潟楼主、市川段四郎夫妻の媒酌で夫婦となり、やすが長女だったので増田家を嗣いだ。
やがて中米楼をやめた夫婦は、駒形河岸で馴れぬ芋問屋を始めたが失敗し、
浅草千東町(突当りに吉原の三階が見える吉原孔雀長屋の一郭)に、
小さな増田書店を始めたのは大正初年であった。
吉井勇や松根東洋城とは既に親交があり、ここで籾山梓月、芥川竜之介、久保田万太郎と出逢って新俳句を吸収し、
十一世、雪中庵東枝〈鶯谷の料亭。伊香保の主人)や梓月、万太郎の勧めに従って十二世雪中庵龍雨を襲名し、
滝野川に庵を結んだ。根岸の雪中庵とは服部嵐雪を師祖とし、江戸俳諧において向島の其角堂(きかくどう)
と並ぶ名門で、龍雨の真面目は連句作法の造詣の伝承にあり、その句は三世、大島蓼太を凌ぎ、
門祖以後の第一人者と称せられた。
京に生れながら、生粋の江戸下町の義理人情の真諦を知った人で、
床屋もすなる俳諧の格調を高めることに努め、多くの門下を育て
好事家の間で『浅草芭蕉』と慕われた。
晩年は、でっぷりと丸味をおびた体軀になり、
温厚な風格で、妻女も世話にくだけた苦労人で、二間間口の店先で夏冬とおして置いてある火鉢をさすりながら、
彼を慕ってくる、若い俳人達を相手に俳諧談議をしていた。
朝からでも徳利の顔を見たいという酒好きで、昭和九年十二月に終生貧困のうちに歿した。行年六十。
著書に『龍雨句集』の他があり、その人柄は万太郎の『市井人』その他に活写されている。
この小唄は龍雨が十二世を襲名して間もない頃、とよ がその下町気質を聞いて小唄の作詞をお願いしたものであろう。
『浅草富士』とは、今日のように気軽に富士登山ができなかった江戸時代に、
浅間神社の分霊を勧請して、人工富士を作り、祭に婦人子供を登らせたもので、
浅草観音、本郷駒込、深川八幡、下谷坂本などに人工富士がつくれれた、浅草富士祭は六月一日が山開きでその前夜が宵宮であった。
麦藁の蛇は、戦前まで社の付近で戸板を並べて、お祭の日に売ったもので、この蛇を水道口にかけておくと、
水当りや疫病、火伏の呪と信じられていた。
小唄は、浅草富士の宵宮の晩、この頃すっかり鼬の道の、吉原の馴染 から届いた文を見ると、
恨みの文字の数々が蛇になって絡みつくような気がする。これではどうしても逢いにゆかねばなるまいが、
この頃の変り易い天候(浅草富士祭の頃は天候が悪かった)のように、
こいつあ、一荒れしなきゃア、納まるまい、と男が首をすくめる所を唄った、
わけ知りの龍雨の秀作詞である。
とよの作曲は、チントンシャーンへ読み流すと低く出て、恨みの文字の数々がでは、
清姫の執念 を思わせる常磐津調の唄い方となるが、
蛇になれで一転して、蛇は蛇でも麦藁の蛇として、
浅草 富士の賑わいにもってくる作曲は非凡で、
数少い春日の男唄の秀曲の一つである。
3,読み流す 本調子 唄・春日とよ 増田龍雨詞 初代春日とよ曲
読み流す 文は渦巻く膝廻り
恨の文字の 数々が
絡みつくかと 怖ろしい
蛇になれ 蛇になれ 麦藁の
浅草富士の 宵祭り
降らざ晴れまい 空模様。
(新暦初夏五月,昭和六〜七年作)
3,言わぬは言うに 本調子 久保田万太郎詞 初代春日とよ曲
[解釈と鑑賞]
この小唄は、久保田万太郎が、JOAKの演芸課長兼音楽課長時代の作で、
小唄の放送に度々出演 するとよが、万太郎に作詞を依頼したものであろう。
万太郎は当時『坂田山心中』の話を悉く知らされてい た。
静岡県富岡の資産家の娘の湯山八重子(二十二歳)は東京に寄宿して
頌栄高等女学校に通っていたが、 男爵家の血筋に当る、慶応義塾大学の学生、調所五郎(二十四歳)と教会で知り合って、
恋愛関係となったもので、 故郷に帰った八重子に縁談がもち上って 断りきれぬ所まで進展していて、
到底結婚できぬと悲観した二人が、死を選んだものであった。
万太郎は調所との結婚に反対さ れた八重子が、坂田山で、その初恋を命をかけて全うした、乙女の純情をとりあげて
この小唄を作詞したものであろうと筆者は推測している。
作詞は万太郎一流の名歌詞で、乙女の『初恋の純情』を 木隠れに咲く、初花⋯⋯と形容している。
『初花』につい ては色々の解釈があるが、筆者はこれを初桜(その年に 始めて咲く早咲きの桜)と解して、
春も彼岸頃の、まだ風も寒い頃、淡紅色の、初花が木隠れに一輪咲いている 風情を、
乙女の初恋の、いじらしいと、それでいて、命をかけている、恋情の強さをみたと解釈していて、
この作詞を戴いたとよは、若き日の恋の想い出をかき立てられて真剣に作曲した。
とよの地である常磐津を縦糸にし、
これに新作小唄の新鮮な感覚を緯糸として編みあげたものがこの作曲であった。
チントンシャ ーン、言わぬは⋯から高音ででたのは、若き日の燃えるような初恋の感情を現わしたもので、
後の いや増さる⋯を前のへいや増さるより、感情をこめて唄い、胸の思いは木隠れにで、その思いは絶頂に達するが、
次の、咲く初花のいじらしい命をかけていると言う、でその感情の強さをじっと抑えて唄っている。
その 余韻あるあとびきと共に、とよの、純情小唄の秀曲第二号と筆者は考えている。
3,言わぬは言うに 本調子 唄・春日とよ福美 久保田万太郎詞 初代春日とよ曲
言わぬは 言うに いや増さる
逢わぬは 逢うに いや増さる
胸の 思いは 木隠れに
咲く初花の いじらしい
命をかけていると言う。
(新暦仲春三月・昭和七年作)
4,言いたい事も 豊泉益三作詞 春日とよ作曲
[解釈と鑑賞]
この小唄は初恋の二人の感情を唄ったもので、豊泉にしてこの作が、耳を疑うような清純な
作詞である。 作曲のとよは、この作詞を戴いた最初はびっくりしたと思うが、流石にとよで、チントンシャーンへ言い たい事も⋯⋯と低く出て、へ眼と眼にこもる千万無量⋯⋯という大時代な歌詞を生かすために、へ眼と眼を おお
じだい して、義太夫風な唄い方とした。この卓抜した着想によって、この小唄は小品ながら い佳曲となった。 とよのレコードによると、この小唄を自作の歌舞伎小唄『恋の緋鹿の子』(お染・後述)の末尾に続けて 唄うようにしている。これはとよが、お染がはる野崎村をたずねて、恋しい久松に逢った時の気持をこ めて、この小唄を作曲したものであろう。そこでこの小唄を、野崎村の義太夫調としたもの、と筆者は考え ている。
筆者は春日とよの小唄の中で、『打ち水』と『初花』とこの『言いたい事も』を純情小唄の三絶と考えている。
4,言いたい事も 唄・春日とよ 豊泉益三作詞 春日とよ作曲
4,言いたい事も 聞きたさも
眼と眼にこもる 千万無量。
言いたい事も 聞きたさも
眼と眼にこもる 千万無量。
(季なし・昭和七年作)
新版歌祭文 野崎村の段
5,お染+よしない+いいたいこも 唄 春日とよ
お 染 本調子 木村富子作詞 春日とよ作曲
よしない 新版歌祭文より野崎村のセリフ唄 近松半二詞 春日とよ作曲
言いたい事も 豊泉益三詞 春日とよ作曲[解釈と鑑賞]
この小唄は『野崎村』のお染を唄ったものである。
作詞の木村富子は野崎村と言えばお染という程好きで、
先に、いとしお染は(清元梅吉曲)、花の姿を(本木寿以曲)があるが、
今回は春日とよと打合せて小唄振りを地に作詞した。
この芝居は、美男の久松を中心に、田舎育ちのお光と、大店の上品な育ちのお染との恋の鞘当が眼目である。
お染は恋一筋の我儘娘であるが、お光が嫉妬するほど美しく、また、観音様をかこつけて逢いにきたやら⋯のクドキに、
友禅の振袖の袂を使うことが許される、、時代物の姫に通ずる気品と教養とが要求される大役である。
富子の小唄は幕切れにお染が船で寝屋川(大阪府)を、久松が駕籠でその土手を、
別れ離れに大阪へ帰る所を唄った、
女性ならではの繊細で瑞々しい感覚に溢れたお染を唄った秀作である。
ふとざお 春日とよの作曲はまえびきから太棹の音を聞かせて、恋の緋鹿の子と出て、
逢いた見たさの山川ををカンにして、さっと一刷毛夕霞を高上りとなって、
送りは野崎村の段切れの三味線を聞かせ終るまで、全く息をつかせない。
小唄振りがついて、さぞ美しかったと想像する。
【注】春日派では小唄のあと、言いたい事も聞きたさも 眼と眼にこもる千万無量を続けて唄うことが多い。
これはとよがお染が野崎村を訪ねて久松に逢った時の気持をこめて作曲したためであろう。
5,お染+よしない+いいたいこも 唄 春日とよ
お 染 本調子 木村富子作詞 春日とよ作曲
よしない 新版歌祭文より野崎村のセリフ唄 近松半二詞 春日とよ作曲
言いたい事も 豊泉益三詞 春日とよ作曲[解釈と鑑賞]
恋の緋鹿の子 お染の帯が 船に枝垂れて 物思い
よしない わしゆえ お光っあんの 縁を切らした
おにくしみ 堪忍して くださんせ
土手にゃ 久松 篭のとり 逢いたん 見たさの
山川を さっとひと刷毛 夕霞
言いたい事も 聞きたさも
眼と眼にこもる 千万無量。
コメント